ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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物鈴木定直明治十年二月西南戦争が起こると、旧藩主秋月種樹の命を受け、密書を高鍋の秋月種節に届ける大任を託せられ、危険を冒して任を人第8編終え大分県日田でこれを報告した。六月警部補に任官すると同時に従軍した。その際種樹は、書面に添え、秋月家の名万を贈りこれを激励した。戦乱治まり十一年兵庫県警部、十四年豊岡警察署長となる。以後兵庫県警部、高知県、富山県と移動、二十二年富山県警察部長となり敏腕をばってきふるった。二十六年に大阪府警部長に就任した。異例の抜擢であった。数年勤務し消防について大改革を行い、服装の改善、火事場の鎮圧、早急消火を図った。なお時勢の進歩に伴う英語学習の必要を説いた。当時は政変が激しく、伊藤、桂、山県、松方、大隈など内閣の更迭は頻繁であった。そのつど知事、警察関係の異動が行われた。三十二年大分県知事に任ぜられ、三十四年内務省警保局長、群馬県知事・滋賀県知事を歴任した。当時はめまぐるしい政変時代で困難な問題に遭遇することがしばしばであったが解決は明快であった。四十年高知県知事就任を最後として、四十三年三月休職退任し多年の官界生活から離れた。性剛毅率直で、よく上官、同僚、部下の信頼を得た。酒もよく飲み、礼儀も正しく、接客には丁寧で、玄関まで見送ったと伝えられる。せい京都東屋町に隠栖し静養した。大正三年九月十九日、糖尿病で死去した。享年六二歳、京都市黒谷光明寺内西翁院墓地に葬る。一八六一〈文久1年)生一九二二(大正日年)没::;;lillli--ーあきづき!li凶・・圃実業家。高鍋藩家老秩月(旧姓』--------圃たねよh---園水筑)種節の四男、母は鈴木百助臥Ha----也の長女久子。高鍋町筏小路に生ま咽a--va-FE屯・E副4huさつおこうし一43羽量馬れた。秋月左都夫の弟。幼名慣l-包'込1‘.4寸ろうもりふさ1111叫一\一睡鈴郎。藩士鈴木衛房の後を継ぐ。東d i尚A油田京帝国大学卒業後、内務省に入/一c ?・iihM圃り、愛媛・大阪・岐阜各府県書記官、農商務省参事官を歴任、明治二十九年(一八九六)住友家に招かれて住友本店の副支配人となる。次いで理事兼別子鉱業所支配人となり、別子銅山の煙害問題については、製銃所を四阪島に移し、別子銅山の近代化を図った。明治三十七年(一九O四)住友総理事となり、別子銅山経営を機軸に鉱業・金属工業・林業・化学工業・機械・電力・銀行・倉庫等広範な、住友全事業の監督経営の責に任ずること一九年。諸般の事業を計画してその功を収め、営業組織を改革し、大正十年(一九二一〉総本店を住友合資会社に改組して全事業を統括し、三井・三菱と対比される財閥に成長させた。また各種調査会委員など公職に就くとともに、東北大学鉄鋼研究所、大阪府立図書館の創設や、社会事業・教化事業に貢献したが、大正十一年(一九二二)病気のため退任し、同年十二月二みかげりょううんじ十五日兵庫県御影で没した。六二歳。高鍋町竜雲寺墓地に葬られた。すずきまさや鈴木馬左也1178高鍋町筏にある「真清閣」はその別邸で、町が譲り受けた。すずきらいすけ鈴木来助一八四二(天保日年〉生一八六八(明治1年)没天保十三年七月二十日、高鍋筏小路に藩の儒者日高耳水の二男として