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概要

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者の立場から考え出したのが平原から畑田に及ぶ水防土手の築造であった。今日「佐久間土手」の名とともに往時の優れた着想を物語り、小字はぜろうに「水除」の名も残っている。後に堤防の上に櫨の木を植え、実を機の製造に使用したが、その何本かは終戦後まで残っていた。頼母の高鍋退去後のこと、没年ならびに墓の所在など残念ながら知られていない。一八二八(文政日年〉生一九OO(明治犯年)没ksi場念....文政十一年七月五日、高鍋新小.....路に父志津馬景正、母浪子(内藤甲aa--齢有隣の二女〉の長男に生まれる。通arjh M称勇雄、詩文には勲と署名した。liLt,‘‘.勇字は子潜、号を竹窓または天則廃la----------圃・・MmいみなJ-----人といった。設は重淵という。藩!?=凶・・校明倫堂に入り横尾敬、日高耳水一九歳で助教になった。儒学のほか兵学、槍術にも優れ横笛をよくした。城;勇E雄ぉに学び、物二四歳、落命を受けて江戸に出、古賀謹堂の門に学び、佐藤一斎、安積良斎、羽倉簡堂、安井息軒、塩谷宕陰と交わり学業を深めた。在塾二年、その間森盈之進とともに寄宿舎設立の要を鈴木百助に建議、後に明倫堂に切偲楼が実現した。嘉永六年、足疾のため帰郷、再び明倫堂助教となり、寄宿寮の都講を人兼ね、次いで目代(大目付に次ぐ要職)に任ぜられた。安政四年(三O第8編歳)物頭格の勘定奉行に補せられ、三四歳で物頭使番に進んだ。文久三年(一八六三)明倫堂教授にあげられ、刑律方御系図調、家中家筋調を命ぜられ、藩政改革について「藩官擬典」を作った。翌元治元年には総奉行兼寺社奉行となった。慶応二年には世子秋月種樹の若年寄就任の中止をめぐって水筑小一郎とともに奔走し、就任辞退の実現に成功した。明治二年(一八六九)家老となり職制改革に当たる。更に藩執政となり神祇局知事を兼務した。版籍奉還後は大参事に選ばれた。明治五年(一八七二〉美々津県南部副長、翌年から宮崎県第四大区(児湯郡東部〉受持学区取締に補せられ、准一等訓導となった。七年第四大区区長に就任、引き続き学区取締を兼ね、民政と教育のうえに業績をあげた。西南戦争の後、明治十一年に田村義勝が晩翠学舎を創設すると、その講師となって青年教育に当たり、十二年六月倉岡(東諸県郡)に転出したが、十三年再び高鍋に帰佳、晩翠学舎で子弟の教育に従った。十七年五月京都府中学校教諭となり二年在職の後、東京府に招かれ「東京府水産図説」五巻を編さんした。二十四年九月高鍋に帰り、家事を養嗣子重雄に託し余生を過ごした。勇雄は早くから高鍋落史編さんを志し、永年にわたり集録するもの数十巻に及んだが、西南戦争のためほとんど全部を失った。しかしなお志を捨てず再び稿を起こしたが未完成のうちに、明治三十三年九月二十四日病没した。享年七三歳。著書に「藩官擬典」「高鍋藩史一班」「藩史備考」などがあり、碑文に「丁丑戦亡記念碑」「平林忠恕君墓碑銘」「高城々跡記」などがある。墓は町内高月の大竜寺墓地にある。すずきさだなお鈴木定直一八五三(嘉、永6年)生一九一四(大正3年)没高鍋町水谷原鈴木定信の長男として、嘉永六年三月十七日生まれる。1177幼名を半造と呼んだ。少年のころ大志を抱いて上京し、苦学努力の後、