ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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物斎に師事し、帰国の後、種美、種茂、種徳、種任の四代に仕えた。早く福嶋郡代となり、次いで勘定奉行となったが、安永十年勘定奉行を免ぜられて明倫堂師範となり、天明二年師範を免ぜられ、更に三年師範再勤、同四年福嶋郡代となった。その後、しばしば極役して江戸と国許の聞を往復し、漸次累進して藩政に参与し、寛政元年奉行となった。同三年十月には家老小田権之丞とともに福嶋を巡見し、同九年十月十二日用人に昇進し、翌年は藩主参勤の責任者となった。寛政十一年十月十日、多年の功績により牛牧に下屋敷を支給され、また特命によって二O石を加増され一四五石となった。享和元年七月以来老齢のゆえをもってしばしば致仕を願い出たが許されず、文化五年正月八日年七一歳で初めて隠居を許され、養老料一生二人扶持を賜った。それまで家老以外で隠居扶持を支給された例はなく、清太夫だけの特思であった。清太夫は早く妻を喪い、一族の者は再婚を勧めたが、結婚は嗣子をもうけるためであり、自分は既に嗣子がいるので後妻を迎える必要はないといい、江戸穂役の際も幼児三人を連れて行った。天資明敏、人に接して温和であるがみずから律するに厳しく、人々に愛重せられた。世務に練達し、言葉遣いや動作に品位があり、輔佐に法があり、近世土太夫の模範であった。文政三年九月三十日病没、享年八三歳。墓は大竜寺墓地に在る。人第8編佐久間頼母生年/没年一ともに不詳越後流の兵法学者。資料がなく詳しい経歴は知られていない。越後流は上杉謙信を流祖と仰ぎ、謙信流とも呼ばれ、この兵学をまとめ大成したのは越後の人沢崎主水景尚で承応元年三六五二)江戸に出て大いに名をあげ門人も多かった。主水の高弟の一人に佐久間景忠の名が見えるが、頼母との関係は明らかでない。佐久間頼母は江戸に門戸を構え、越後流の兵学者としてその名をぶらうえがたしたがたれていた。当時高鍋落は三代種信が藩主で、上方下方騒動のような午祥事によって人材の減少を招き、新しい人物を登用して藩政の刷新を戸っているときであった。頼母はこうした時機に高鍋藩に召し抱えられ、~一人で、本藩実録貞享三年四月二日の記事に、吉田寺頼母を二百石で一口し出したとある。吉田寺頼母は佐久間頼母のことであり、佐久間家公借主種信の五男勝数が養子となった安房守勝曲一一且の家)に遠慮して吉田寺、し称したという。頼母が江戸から高鍋へ下ったのは四代種政のときで、一ん禄六年(一六九一二〉五月であった。種政は頼母を伴って帰国、宮団長一民に住ませ、兵学を講じさせた。本藩実録には吉田寺頼母が佐久間融関加と称し、軍学の師で高鍋藩の北越兵学がこれから始まったことを記しLい司令。1176頼母はこのとき以降、日を決めて城内で兵法を講じ、諸土にも聴一闘を許された。頼母が高鍋に在住した期聞は正確には分かっていない。ん禄十五年(一七O二〉八月、頼母は家族を高鍋へ引っ越させる見込みがないため、辞任を申し出たが、種政はその人物を惜しんで許さず、江戸行きは折々の自由とし、引き続き藩の軍師とし、改めて二十人扶持を与えて優遇した。右の事実から察すると頼母の高鍋在住は約一O年ないしそれ以上になりそうだが、藩史話に安田尚義も記すように余り永くはとどまらなかったようである。頼母の兵学教授以外の功績として今日に伝えられているものに、佐久はんらん間土手の築造工事がある。小丸川は毎年台風の襲来ごとに氾濫し、田畑や住宅を浸した。そのため馬場原、平原から塩田川一帯が湖水のようになった。この災害を防止することは当時の懸案であった。たまたまその対策に従事したのが頼母である。小丸川洪水の実情を子細に調べ、兵学