ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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物沢東肢の門に学ぶこと三年、病を得て帰郷し、安政六年再び江戸に出て藤森天山に師事し、川田剛、小野湖山、依田百川、小崎利準、股野琢らと親しみ、活眼して帰国し、尊王を唱え大いに落中の士気を振作した。物頭となり兵賦方専務となり、兵制の改革を提唱した。文久二年特命をもって支封木脇分知の家政を総裁し、その処置が厳明で君臣ともに引き締まったという。同年八月細島砲台築造の功により賞を受けた。慶応二年一月周礼の講書を命ぜられ、高鍋屯長を兼任し、十二月には大坂留守居兼探索方となった。慶応三年六月世子種樹の若年寄固辞問題が起こったため、京師江戸間に奔走して百方周旋し、ようやく落着し種樹は新政いねい府に入り参与となった。明治元年三月、京都乾門警衛の総長となり、同年参政に昇進して十人扶持を給せられた。同年四月二十八日、徴士となって内国事務局権判事、閏四月二十二日権弁官事となり、五月二十四日、下局議長となった。翌二十五日楠公の祭典が挙行され、群臣に詩歌を献ぜしめられた。奏は漢詩一一編を献じた。維新第一典人臣百世師人勝湊川上天定鴨河酒一拝志成敗無人不涙重この年奥羽越討伐に高鍋藩兵が参戦し、米沢藩の帰順説得に使節を派遣するなど皆その周旋によるという。十一月八日、徴士および権弁官事を免ぜられ、精勤を賞し羽二重一匹を下賜されている。官をやめるに至った事情は、一説に、薩長閥の一部ざんに彼の公正な議論と痛烈な批判が恐れられ、識に遭ったと伝えられる。次の七絶一編は感懐の一端とも見られる。人瓢捗幽明公且平半年徴土成何事休憂百務不新清第8編高得官中論客名この年東京に出て十二月、藩の公議人となり、集議院に入って幹事に補せられた。明治二年落の職制改革があり、十一月二十五日権大参事となったが、病に倒れ大坂で療養を続けた。明治四年十一月新川県権参事に任ぜられたが、病のためまだ任に就かないうちに免官となった。明治八年九月、都農神社宮司に任じ権大講義を兼ね、宮崎県神道事務局長となった。明治十年西南戦争がぽっ発すると、奏の動向の影響の大きいのを懸念した大久保内務卿は秋月種樹に旨を述べてこれを諭さしめ、奏はみずから神官に素しては神官を行うとし、薩箪にあえて侵させなかった。官軍進攻に当たっては、百方尽力して兵糧を捜索して官軍に供給し、征伐第四旅団長から謝状と慰労金を贈られている。乱後、神道事務局から乱中の動静について問うてきたので、顛末を叙して答えた。旧藩主種樹は、これを「素行紀事」と題し三条実美に呈覧した。三条公は、「奏の志操行為終始一徹感賞すベし」と賛辞を呈したという。十二年十二月大和神社宮司、十四年十二月大神神社宮司、十六年司法省の法律学校、後せき元老院に勤め、明治二十四年三月二十二日、親戚の坂田明(諸潔の長男〉を訪問中に発病し、三十日没した。享年六二歳。東京麻布光林寺墓地に葬ったが、遺髪は高鍋大竜寺の坂田家の墓に、その室ツヤとともに合葬されている。一七三八(元文3年〉生一八二O(文政3年)没さねのぷ元文三年八月四日、父は実陳、母は小田氏、その長男として生まれる。幼しざん名は喜太郎、後宇平次、更に清太夫と称した。芝山はその号である。坂田家は中原姓、その祖先の官師という者が秋月氏の始祖阿知使主に従って帰化したという。また、梁の司馬達の末虫闘で、達は帰化して近江国坂田郡に住み、子孫が坂田を姓としたともいう(披勇雄説)。以来血統連綿eかだもろやす坂田諸安1175とした旧族である。清太夫諸安は少時大坂に遊学して留守希斎、{子井黙