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概要

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物内外会葬者の長い列が続き、この温容と厳格を兼ね備えた偉大な教脊者?の死を弔った。享年五八歳、生前従五位勲五等に叙され瑞宝章を受け℃人いた。墓地は高鍋町高月の安養寺墓地にある。昭和十三年十一月、高鍋農高同窓会は同校創立三十周年に当たり斎藤角太郎校長の胸像を校庭に建設した。第8編一八二六(文政9年〉生一八八八(明治幻年)没文政九年十月五日、高鍋藩上江平原の藩士坂田伊喜治の長男に生まれる。名は師正、通称稲太郎。坂田家は代々秋月家に仕えた古い名門で、藩公の信任厚く剣術、柔術の家柄で山奉行を兼ねた。生来清廉潔白、幼少のころから卓越した才能とおう盛な気慨を持っていた。藩校明倫堂にとみ学び、弘化三年(一八四六)藩主種肢の供をして、しばしば江戸と高鍋との聞を往復した。その聞に書方見習い、供目付を仰せ付けられた。向学心に燃え余暇を利用して、雲弘流剣術、長沼流砲術(西洋砲術)および小銃操錬など高度の免許を取得した。また数多くの著名な人物に接して教えを請い、識見を高め、技能の修得に励み、後に兵法及び西洋砲術の師範となる。教を請う者多くその指導に当たっては忍耐強く、一心不かがりぴ乱、昼夜をいとわず、私財を投じ夜は箸火をたき、寝食を忘れ、夜半に及んだという。さかたいなたろう坂田稲太郎平常隊伍教練に臨んでは、号令は明朗、隊土の挙動は活気あふれ、地を踏む足音は遠く響き渡り、観る者はただ巧妙と称し拍手称讃した。後年高鍋藩が維新の東征に際し、多くの精鋭を北越の戦地に送り、顕著な功績を現したのは、稲太郎の指導によるところが大きい。なお藩政末期山奉行を兼ね山林制度を整理し椎木屯長となった。また細島、福嶋の砲台築造の責任者として、藩公よりたびたびその功労を賞せられた。明治三年兵賦局の助教を命ぜられ、砲術師より、製薬長官を命ぜられた。同八年九月第四大区五小区持田、平田戸長を命ぜられた。1174明治十年の役起こるや薩軍のため無理に大砲火薬製造に従事させられたが、後許されて無罪となった。十九年ごろから中風症を病み、二十一年十月二十六日没した。享年六三歳、谷坂墓地に葬る。三十三年十二月黒水長他、武藤東四郎発起となって門下生二十余人とともに墓石を谷坂に立て、盛大な除幕式を挙行した。また昭和十七年一月吉日平原区住民ならびに有志によって「坂田稲太郎翁記念碑」が、平原の金比羅山中腹に建立された。碑銘は秋月種英の筆である。稲太郎は山奉行時代、平原地区民に谷坂、金比羅山一帯の造林および管理に当たらせた。そのおかげで住民は日常生活の炊事用薪炭を不自由なく使用することができるようになった。その後樹木を伐採し、消防機購入費に充て消防活動に貢献した。現在は平原地区の貴重な共有財産として管理し、利用されている。一八三O(天保1年)生一八九一(明治M年)没天保元年七月十七日、父は諸亮、母は田村雄右衛門の娘数子の独り子として生まれた。五歳のとき父を失い、母は実家に帰り、父の末弟盛大夫諸正が家を承け、事介はその嗣子として養育され、後、家を継いだ。素行はその号である。清太夫諸安は曽祖父、堤長発は母数子が鈴木百助の後妻となって生んだ異父弟の助作で堤家を継いだ。表は早く明倫堂で日高耳水に学び、嘉、氷二年十二月一日、明倫堂助教仮役、同三年十月十八日、助教本役となった。同五年大坂に遊学して藤坂t固だ葬;