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概要

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二年一月明倫堂教授を兼任した。同三年三月江戸に話役して教授を解かれ、明治元年七月帰藩して教授に再任された。翌二年三月惣奉行に昇進し藩政に参与し、居を黒谷に移した。周年九月公選によって少参事に選任された。廃藩後、宮崎県出仕に請われたが就任せず、高鍋で商社長となった。明治十年西南戦争には、高鍋隊の軍事世話係となって薩軍に協あっせんえ力し、銃器弾薬および糧食を斡旋するところが多かった。西郷隆盛の可のたけ愛獄突出後は隆盛とともに鹿児島に入り、城山陥るに及び国事犯として東京市ヶ谷の獄に投ぜられた。しかし同十三年一月特赦により帰国を許された。獄中文筆に親しみ「鉄窓吟稿」を書いた。ほかに詩文集「掬翠先生遺稿」があり、論説一七編、詩六六編が収録されている。明治二十四年十二月二日、病により没した。松本坂北の山中の先壁に葬る。享年げいじよう六九歳。次の詩は西南戦争最後の決戦場廃城(城山)の賦である。他日百孤に夜万軍擬轟1の決鹿す然f重死児草震2囲魔f島野重2何城;誠一飛セLJ山虫ぶ驚JLの声二す作足らん物一八七四(明治7年〉生一九一二一(昭和6年〉没明治七年六月二十九日、児湯郡都於郡村(現在西都市)に父荒木周平、母ムメの三男として生まれる。七歳のとき同村、斎藤伊平次の養子となった。広瀬高等小学校から熊本第五高等中学校予科に進んだが、期するところあって退学し明治二十六年札幌農学校予科に入学した。三十二年七月同校本科を卒業。秋田県平鹿郡農事試験場技師、同試験場長を歴任し手腕をふるった。三十六年(一九O三)高鍋町に郡立農業学校が斎藤角太郎人第8編設立され、迎えられて同校の初代校長に就任した。時に二八歳であった。斎藤角太郎高鍋藩校明倫堂の跡に設立されていた、高鍋学校に代わって同じ敷地内に建てられた農業学校とあって、地域住民の期待は大きく、これを双肩に担って新しい学校eつくりが始まった。明倫堂以来の人材養成の伝統を踏まえ、国民教育の本旨に即し、斎藤校長の郷土愛と勤労開拓の精神、質実剛健と報思礼節などを織り交ぜながら、常に寛厳の配分よく学校経営は充実の一路をたどった。大正七年(一九一八〉郡立農業学校は宮崎県立高鍋農学校となったが、引き続き校長を勤め大正十五年一一一月十七日退職まで実に二三年終始一貫変わるところがなかった。その問校舎、寄宿舎、実習棟、農場、畜舎、学校林、運動場、武道場、教材、教具の整備はもとより、教師陣容の充実は年を追うて、学校の声価を高からしめ、県内はもちろん県外から校風を慕って集まる者多く、特に児湯地区は斎藤校長のもとに子弟を学ばせることを誇りとし、少年たちは同校入学にあこがれを持つ風潮も生まれた。斎藤校長は栄転の話にも耳を貸さず、農学校の経営に全力を傾けた。教えを受けた人々は、その厳しい教育の姿を「斎角精神」と呼んで敬慕してやまない。赤誠剛毅の性格のうえに進取の気性に富み、卒業生の就職の世話など私費を惜しまず活動した。こうして築かれた校風はその後県立高鍋農業高校に受け継がれ、更に今日の自営者養成農業高校に続いている。昭和六年五月二十四日、高鍋町にて死去、二十七日自宅を出て葬儀場の高鍋農校運動場に向かった枢には、在校生はもとより卒業生ほか町1173