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概要

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物享保ナ三年三月十八日、上江村松本に生まれた。父は吉当、母は森氏、藤原姓、十郎兵衛と称した。壮年にて京都に遊学し、久米訂斎に師事した。宝暦十二年二月十九日、廉之屋敷の講書師範を命ぜられ、藩臣の子弟の教育に当たった。明和二年七月二十一日、御居間で藩主稜茂に経書を講じ、大目付以上に聴聞を命ぜられた。安、永四年、士ロ恵は人材育成のため学校設立の必要を感じ、学友の内藤進とともに、廉之屋敷稽古所とは別に学校を設立することを進言した。しかし当時、連年大風雨、干害、虫害などの天災が引き続き財政困難の折であったため、やむなく見合わせとなった。同六年、特旨をもって新納代官に任命された士口恵は、六月十七日、農民たちの農耕馬の入手困難の実状を見て、その具体的な解決策のほか、農民に対する夫役の軽減策を具申し、銀と銭との交換率に関する提案を行い、同年七月には、風俗を正す上から、盆中に他領から村々に入り込む夜念仏を停止すべきことなどの建設的な建一言を行った。人第8編おきかね安永六年七月十八日、千手八太郎輿欽の献言によって、新たに学校が建設されることになり、吉恵は学校諸支配頭取となり、千手八太郎、山内富太郎とともに建設に参画した。学校は、翌七年二月二十四日完成し、明倫堂と名付けられ開講式が行われた。士口恵初め千手八太郎、山内冨太郎は師範(寛政五年以後は教授という〉に任命され、大学校著察斎において「大学序」の初講義を行った。安永十年二月、ほかの任務に転じたが、天明二年七月再び師範に任ぜられ、それから寛政五年に隠退するまで前後一六年間、藩臣の子弟の教育に尽くした。寛政四年七月に高山彦九郎が高鍋に来た際には、吉恵のほうから彦九郎をその宿に訪ねたことが筑紫日記に記されている。寛政十年十月五日没し、大字上江松本坂の北の先壁に葬られた。享年七一歳。一八二三(文政6年〉生一八九一(明治M年)没よしすけ文政六年九月十日、父善輔、母泥谷氏の長男として上江村井上に生まき〈すいれる。藤原姓、誇は吉一、字は子慎、十太郎と称し、掬翠と号した。明倫堂教授の吉郎は曽祖父であり、祖父貞て父善輔も明倫堂教官であった。士口一は性強毅、学聞を好み、天保十四年二一歳で江戸に遊学し古賀とうあん伺庵に師事すること三年、更に弘化三年大坂の篠崎小竹に学び、藩命によって再び古賀氏に学び、嘉永元年帰郷して明倫堂助教になっている。古賀伺庵は漢学ばかりでなく洋学にも通じた視野の広い学者で、その声ぴ望は一世を風麻酔したという。伺庵門の横尾敬に次いで吉一一は新学風を明ざいつよしかず財津吉一1172倫堂に持ち帰ったのであった。また聡明な公子政太郎種樹の伴読となり、心を傾けてその輔導に当たり師友を都下に選んで推薦した。佐藤一しおのやとういん斎、藤森弘庵(天山)、安井息軒、塩谷宕陰、渡辺魯輔、山井瑛甫は皆吉一の推税するところであった。城勲は「掬翠財津先生小伝」に、「種樹の今日に至るはその聡明によるといえども蒸陶の功も亦謹ふべからざるなり」と吉一の功績を評価している。安政四年特命によって家老手塚邦之丞を都合(長官)とし、惣奉行鈴木百助、大坪勝太郎、勘定奉行滅勇雄、それに吉一も参加して藩財政の再建を図ることになった。「竹窓年譜」によれば財政通の吉一最も功ありという。当時内外極めて多事、落の負債は四万両の巨額に達していた。家老手塚、惣奉行鈴木に従って上坂した吉一は交渉の矢面に立って奔走し、返還の道を講じ、殖産節約ようやくその緒に就くを得た(第四編六章第一節)。文久三年、種樹の世子問題についても城勇雄と協力し、奔走努力してようやくその実現を見るに至ったが、士口一は重病に伏す父を振り捨てて江戸に急行し、事成って父の墓前にぬかずいたのである。吉一は累進して勘定奉行となり、慶応