ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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上墓地に葬る。〈るみずちょうぞう黒水長憧一八二八(文政日年〉生一九二ハ(大正5年)没黒7)c長怯と長主し周主文て、政生母十ま大ーれ塚年る静九。氏月長の卜兄娘六種主、日節よそはの父後四水秩男筑物月を名のり、私月左都夫・鈴木馬わし左也の父である。長憶は通称を鷲郎おといったが明治三年から実名長憶を用いた。明倫堂に学び横尾敬、日高明実に師事し、しばしば藩主への御前講書を行って賞を受けている。天保十四年一六歳で用人黒水司馬太の養子となり、嘉永元年二一歳のとき藩主種肢の近侍として江戸に出て種樹の経学・槍術の相手を勤めた。文久三年藩主が海岸防御の勅書を受けると兵制改革を担当し、細島、美三洋、福嶋の砲台を建造した。慶応三年、幕府は世子種樹を強いて若年寄に任用しようとした。長髄は天下の形勢日に迫る折、若年寄就任は断じて避けねばならないとし、兄秋月種節とともに、僚友である城勇雄、坂田奏と協力し、青年有志の田村増吉、鈴木来助、水筑弦太郎、三好退蔵、岩村兼善らとともに藩論の方向を定め、奔走して辞任の実現を見るに至った。辞任実現を見るまでに薩藩に依頼して種樹の江戸脱出を図ることがあった。そのとき、すなわち慶応三年十二月二十五日、たまたま幕軍の薩摩屋敷焼打事件があり、薩の副留守居脇田一郎が高鍋藩邸に保おい護を求めてきた。長憶は甥の水筑弦太郎と鈴木来助に指図してこれを京人第8編師に脱出させようとした。島津秋月両家が豊臣氏西征以来極めて親密な両敬の間柄であることと、幕府の高鍋藩に対する疑念の回避のための処置であった。不幸にして三名は駿河原駅で幕吏に捕われ、江戸伝馬町の獄に投ぜられたが、藩の責任を問われるには至らなかった。弦太郎は獄中で病没したが、ほかの二人は後日許された。明治維新後、長憶は兵賦局知事兼内務総括となり、次いで明治二年三月十二日執政〈家老〉となり、一一一年一一一月大参事に任ぜられた。四年七月廃藩置県となり、大分県七等出仕、岡県権参事に任ぜられた。七年十二月依願退官し、八年九月宮崎県第四大区区長、九年八月宮崎県を廃して鹿児島県に合併した後、十年一月願いにより区長を免ぜられた。この年西南戦争が起こり高鍋も大いに動揺した。長髄は空論を廃して実状視察の必要を論じ、同志の土と鹿児島の実況を視察し画策するところがあったが、実兄秩月種節らとともに薩軍のために幽閉された。いわゆる高鍋りょうしゅう九烈士の領袖である。乱後、東京市ヶ谷の監獄につながれたが、前後の事情の疎通しないためで、直ちに放免され一時三好退蔵の自宅に寓居した。十二年七月士族の恒産恒心を保存する主旨で高鍋保存株式会社を設立し、推されて社長となった。また、高鍋養蚕社を輿し、晩翠学舎設立のことに参与し、十六年七月第一回県会議員選挙に当選し、宮崎県再置に尽力して請願委員にあげられ、川越進らと上京して運動し、十六年再置を見るに至った。本県再置の当初県会副議長にあげられ、十七年児湯郡長に任ぜられ、二十三年に多年念願していた高鍋穂北聞の里道を完成させ、二十五年非職令命ぜられた。その後二十六年四月高鍋製糖株式じんすい会社を設立して社長となった。また秋月家のことに尽淳するなど公私のために貢献したが、大正三年一月桜島爆発のとき発病し、大正五年九月二十九日没し、大竜寺墓地に葬られた。享年八九歳。ざいつよししげ財津吉富山一七二八(享保日年)生一七九八(寛政凶年)投1171