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概要

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物年陸軍大学校学生を命ぜられた。九年大分県日出町の松本サツと結婚、卒業と同時に歩兵第四五連隊(鹿児島)中隊長となる。十年陸軍士官学校教官に補せられ大尉昇進、第六師団参謀を勤む、少佐に昇進歩兵第七四連隊の大隊長、昭和二年陸軍工兵学校教官となり、実戦的戦術には生徒を厳しく鍛えたという。中佐昇進、北陸金沢第七師団付、十年大佐昇進、天津駐屯歩兵隊長となり大陸に赴く。十一年五月北支駐屯歩兵第二連隊長となり、北支事変ぼっ発後は、各地に転戦鎮圧に努める。十二年陸軍士官学校教授部長、十三年陸軍少将となる。第一O六師団第二二六旅団長として、南九州の軍隊統帥の地位に立った。十六年陸軍中将に任ぜられ留守第六師団長、第四六師団長に補せられ、十八年十月予備役仰せ付けられた。十一月第六師団長として召集を受け、前両師団を合わせ熊本師団長の任に就く。二十年四月召集解除となり、宮崎市長に就任した。終戦前後のいちばん困難な時期に復興対策に当たり、駐留軍来ると同時に市長を辞任、郷里高鍋に余生を送った。当時の家庭生活は厳しい食糧自給の時で、かつて経験しなかった農耕作業に従事しながら、舞鶴神社宮司となり、子女教育と郷土愛に燃え、日本の教育復興を念願し、二十七年高鍋町教育委員に出馬当選、三十一年まで、教育委員長を勤め、教育の刷新改善に尽力し、かたわら戦時中から短歌に志し、多くの佳作を残した。病を得て、三十一年二月二十八日死去、享年六七歳、教育委員会葬を行い、谷坂の萱嶋家墓地に葬る。一八六九(明治2年〉生一九六O(昭和お年)没人第8編〈ぽまさなり久保昌業高鍋町名誉町民久保昌業は明治二年五月五日、高鍋町後小路久保友衛、母三重の長男として生まれる。幼名篤十郎と称した。十五年高鍋学校および晩翠学舎に学び、十八年南方村(穂北役場〉外三か村戸長役場用掛となり、二十年四月三財村戸長役場用掛に転勤。その間職務に専念努力し、古学に当たるや疑問、不知の点あれば昼夜を問わず帰高してその都度先輩の教えを請い、直ちに処理し賞讃を受けた。二十二年町村制が実施されると、高鍋村役場書記となり、三十年児湯郡役所書記に任命され、郡内町村の指導事務1170久保昌業を担当した。三十二年六月高鍋村長に就任。財政改善に努力、三十四年二月七日高鍋町制を施行し初代町長となる。四十四年県会議員に当選、議員一二年、大正四年町会議員当選以来、昭和十七年まで連続当選した。二十二年から三十年九月まで後小路区区長を勤めるなど、地方自治に尽力貢献した。特に高鍋町是策定は県内でも初めて発表され注目を集めた。昭和三十一年地方自治功労者として藍綬褒章を授与された。このほか実業経済界での活躍にも著しいものがある。大正八年高鍋製糸株式会社支配人、日向銀行員となり整理運営に当たった。選ばれて、十五年高鍋無尽株式会社専務取締役に就任し、これより本格的に敏腕をふるい、東児湯一円地域の金融界の黄金時代を築いた、社員八十余人、中小企業商店街の経営に寄与した。事務所は現在の宮崎相互銀行の所在地にあった。十六年太平洋戦争起こるや、金融界の組織変更で、宮崎無尽常務取締役、十九年辞任、宮崎無尽株式会社顧問となり、郷土の商工業の発展に貢献した。三十五年四月三日、高鍋町名誉町民に推挙される。三十五年八月三日齢九二歳で病、役した。八月五日町葬を行い、田ノ