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概要

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られた。翌三年堺県史生を辞し、海路高鍋に着き、十二月九日学校助教、藩学改正の主任となり、翌四年明倫堂教授に任ぜられ、神社のことを兼掌した、当時二二歳。たまたま廃藩から諸制度の大変革あり。「童蒙須携」「連語篇」などの出版を文部省に願い出てこれを許された。六年九月十七日静岡県片岡喜将の長女ミフヂ子と結婚。師範学校建設に尽力学校長兼務となる。森有礼文部大臣となるに及び上京して東京師範学校幹事となり、二十三年四月東京府立尋常中学校長となり鋭意改善、模範中学校とした。三十七年十月韓国皇帝の旨により、同国留学生四八人の教育監督となり、四十二年四月には関東都督中学校長に任ぜられ、同年旅順中学校開校式を挙げ、翌四十三年旅順高等女学校を創立、大正七年勲四等、九年四月旅順工科学堂教授高等官二等に叙せられた。九年九月二十一日職を辞して帰朝した。その後特に高鍋中学校創立に当たっては、推されて学監となり、十二年二月西下して事に当たり、四月十六日開校式を挙げた。老齢をおして以後数回往復して校務に精励、校訓・校歌の制定、舞鶴会の創始など中学校創立の基礎eつくりを進め、みずから教壇に立って人間の生き方を教授した。十五年春から健康勝れず、十二月七日、七七歳で没した。事上聞に達し、位一級を進め正五位に叙せられ、麻生本村町円沢寺に埋葬した。物一七七七(安永6年)生一八四六(弘化3年)没安永六年四月一日生。父は新五左衛門、母は内田氏。誇は景矯、保次かつみと称し、後克己に改めた。家は代々軍学家で、曽祖父市之丞、父新五左かやしまかげた叫萱嶋景矯人衛門は共に越後流の軍学者佐久間頼母に学んだ。克己景矯もその家学を第8編受け継ぐ秀でた軍学者であった。多年八代藩主種徳の世子種任の伴読としてその誘扱に努め、種任は文化五年十月家督を継いだ。明倫堂教授千ぞんじより手廉斎は克己の識見とその学殖を高く評価し、「存寄」(意見具申)をもって教授に推挙し、文化七年十一月二十四日、克己は明倫堂教授に任命された。藩主種任の信任も厚く、翌八年六月には、藩主の帰城使者に選ばれて幕府に報告した。それより次第に累進して文化十四年十月には惣奉行に任ぜられた。藩主の参勤に従うことも多く、文政六年九月用人に任ぜられた。不肖をもって辞退を申し出たが許されず、かえって宮田に屋敷を与えられ忠勤を励まされた。それより後、用人より奉行兼任となり、また用人に転じ、さらに奉行となり、その聞に学校中都合、内証方担当、唐船担当等を歴任した。天保六年六月には世子種段付きの用人に任ぜられ、種肢に従ってしばしば江戸と国許の聞を往復した。天保十三年から度々隠退を願い出たが、その都度慰留され、弘化三年四月初めて隠退を許された。同年十二月病のため没した。享年七O歳。鮎ぷ肌一八八九(明治幻年)生曲川T R一九五六(昭和白年)没241 q b1官r官4高鍋町出身の軍人。明治二十二=吉か-"!.ゃ高年四月十八日上江村新馬場に父三郎、母阿百六利の長男として生まれる。父は営林署勤務のため、祖父母が養育に当たる。幼少から頭脳嶋萱軍土官学校を卒業し、優れ学業成績は優秀で高鍋学校を卒業、県立宮崎中学校を経て、陸四十三年見習士官を命ぜらる。大正二年臨時駐韓軍旅田に入団、慶尚南道英州駐屯部隊に派遣され翌年帰隊、中尉昇進、やがて陸軍士官学校生徒隊付となる。1169このときの地位は陸軍大学校への登竜門とも言えるものであった。六