ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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おざわじさぶろう小沢治三郎一八八六(明治四年〉生一九六六(昭和引年)没引岡高鍋町出身の軍人。明治十九年、おJ十月二日父寅太郎、母ヤツの二男知一郎として、高鍋町六日町に生まれ視品三~f治た。生来身体強陸、性剛直正義の4}沢一小念が強かった。高鍋学校卒業、宮~崎中学校四年生のとき、不良青年物と橘橋付近で大立ち回りを演じた理由で退学処分となる。直ちに上京私立成城中学校入学、三十九年卒業に際し、第七高等学校と海軍兵学校合格の通知に接した。意を決し第三七期生海軍兵学校に入学した。四十二年十一月卒業、海軍少尉候補生となり、練習艦宗谷乗組を命ぜられ軍人として第一歩を踏み出した。その後砲術学校普通科学生、海軍水雷学校普通科生として輝かしい街道一筋を歩いた。大正=一年(一九一四)第一次世界大戦起こるや、日英同盟により、白木はドイツに宣戦を布告、小沢海軍中尉は第一艦隊主力艇比叡に乗り組み、南方洋上を行動中のドイツ東洋艦隊主力艦に戦闘を挑む、二八歳の初陣であった。海軍大尉昇進、六年名門の妻を求めず、同郷森つわ石蕗と結婚。水雷学校高等科学生、海軍大学校卒業、少佐昇進、駆逐艦竹艦長、その後各種艦長歴任、戦隊、般隊の参謀、各駆逐隊司令、戦隊司令官、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長となった。砲術に詳しく、特人に水雷作戦に秀で、当時軍令部長の信任が厚かった。十四年第一航空戦隊司令官、旗艦赤城に乗鮮、十五年海軍中将に累進、十六年海軍大学校長、十七年十一月第三南遺艦隊司令長官となり、マレl海域に進出、英第8*濡国東洋艦隊の戦艦「プリンス・オブ・ウエlルズ」および「レパルス」を撃沈し、陸軍山下兵団と相策応し、海陸協同作戦を展開し、よくその範を示した。更に印度洋機動作戦を実施し、第三艦隊第一機動艦隊司令長官となり、軍令部次長兼海軍大学校長となった。このころからしだいに日本海軍も不利な状況に追い込まれた。二十年五月海軍総司令長官兼連合艦隊司令長官、海上護衛司令長官に親補され最も重要な地位に立たせられた。このとき海軍大将昇進の命を固辞した。八月十五日終戦の詔勅下り、終戦処理に従事し十月予備役となった。十一月従三位旭日大綬章を授けられた。その後敗戦の責任を痛感し、戦死者への供養に身を捧げ、一方真実を伝えるため、防衛庁戦史室の事業に協力、四十年防衛庁顧問となり、=一軍統一を進言した。彼の生涯は「無欲」の精神をもって軍人生活を貫いた。四十一年十一月九日、東京世田ヶ谷の自宅で病没した。享年八一歳。鎌倉霊園に葬る。分骨し高鍋町元祇園墓地に埋葬、墓碑名大雄院股浄誉治濡居士。おだともゆき小田知之一七回O(元文5年)生一八O三(享和3年)没元文五年八月十四日、父は知光、母は坂田氏、その三男として生まれる。初め知時、後に知之に改め権之丞と称した。本姓は大蔵氏、父、知光は秩月種政の庶子で小田藤兵衛の養子となり、主計と称した。坂田貞左衛門の娘を要り三男五女があり、長子知要が家を継いだが子が無く、弟知時が継ぎ、名を知之に改めた。知之は安永十年内藤進とともに明倫堂師範に任ぜられ天明元年十二月二十七日、御使番に立身した。天明三年五月藩主種茂の帰城使者として江戸に上り、同五年十月二日、惣奉行となり、天明七年十二月三十日、1167家老となった。享和三年八月四日、吉岡鍋新小路で没し、慈雲山大竜寺墓