ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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物れた。藩主種徳は多年の精勤とその功績を賞し、羽織を贈り厚く労をねぎらつた。人文化四年十二月二十八日病のため没した。享年七九歳。墓は安養寺墓地にある。妻は柴垣氏。一男四女があり、家督は静氏が継ぎ、長女は早世し、次女は藩士岩村兼時に、三女は飲肥の門川杏林に、四女は内藤有隣に嫁した。第8編一七六一(宝暦日年)生一八二五(文政8年)没宝麿十一年四月八日、上江村黒谷に父氏慎、母柴垣氏の長男として生まれる。{子は子倹、通称太一郎、観澗と号した。梅楼、拙斎、冬一扇子、考繋富は別号である。生来虚弱な体質で母は百方手を尽くし成人して初めて壮健となった。安永六年十一月、藩主種茂は藩学明倫堂の文武の試験に臨み、静氏の論語の進講を聴き、非凡の才を奇とし、賞としてぷ引を与え、学費を給して京師に遊学を命じた。翌七年=一月、種茂は参勤の途次、伏見で宇井黙斎に静氏の教育をみずから委託した。後大坂に遊びし御牧直斎、山口剛斎に業を受け、天明三年三月江戸に出て世子種徳の師侍となり、幸田誠之、柳田義直、渋井太室、服部栗斎に学を正し、岡田寒泉、頼春水、尾藤二洲らの知遇を得た。寛政元年六月種徳の襲封に従おおつかしずうじ大塚静氏って固に帰り、法令制度の更張に当たっては観澗もその衝に当たった。同四年江戸に話役し、柴野栗山に謁した。この年幕府は粟斎のために麹町に講堂を聞いたが、栗斎は観、澗に大学を代講させている。翌五年五月帰国し、同九月財津吉恵に代わり明倫堂教授となり、同七年十二月物頭に任じ、九年九月命を受けて練兵法を更張した。以来藩主種徳に重用されて参勤の度ごとに江戸と国許の聞を往復し、江戸にあっては世子種任ふの侍となり後宮の事を兼ね、帰国しては教授として後進の指導に当たった。享和三年一月、家老隈江藤太夫、奉行小田勘解由を輔佐して、福嶋に漂着した清国船の事を弁理し、長崎奉行へ引き渡しの指揮を取った。このとき、外国船漂着処分法数十件を長崎奉行所と協議して定めた。文化元年十二月、漂流外国船処分書、擬定漂流話一巻を藩府に納めた。文化五年に清国船が福嶋黒井浜に漂着した時も、家老手塚源太夫、奉行内田主水を輔佐し、翌六年一月長崎へ護送した。九月には総奉行に任ぜられ、教授を辞めてなお侍講を兼ねた。文化十三年五月学校中都合となり、文政元年二月には特に奉行の月番を免ぜられ学政を振興させた。同二年二月数年の功労を賞して別壁を賜わり、同四年九月、老齢のため特命により隔日登城し、賞罰等の大事に参議した。これよりさき、しばしば引退を請うたが許されず、文政八年七月、引退を願って初めて許され、養老料若干を賜わったが、九月二十日病没した。享年六五歳。二十二日秩月山安養寺墓地に葬った。著書には『本藩実録七巻八冊』、『藩祖事略一巻』、本落譜系一巻、『日本道学淵源録四巻』、『同続録五巻』、『同続録増補二巻』、国朝儒先録二巻、別録一巻、諸老略伝一巻、蛍雪録三巻、二編三編各一巻、続編二巻、観欄集前編二巻、後編三巻、観欄手録二巻、国学私議二巻、高鍋孝子伝一巻、負笈紀間六巻、観澗七説一巻、藩官考一巻、答或人書一巻、教学大意一巻、朱子論性説解義一巻、骨薫録一巻、備塞録一巻、などお1166よび未脱稿のものに、小学家礼、近思録、四書、五経、太極通書、村学資講数十巻、議武紗説二巻、読要鑑紗大意一巻、兵学考説、訳学考謹各数種、俗語考等、が、落史備考十四巻、文武調書に挙げられているが、今伝わっているものは、このうち『』を附した数種にすぎない。岩村氏を要り、三男二女があった。長男は夫折し、次男寛氏が家を継しだ。