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概要

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上杉家に移った治憲は、細井平洲、滝鶴台、渋井孝徳に師事し、特に平洲を厚く尊敬しその教えに従った。治憲が養子となった当時の米沢藩は、疲弊の極に立ち、そのうえ権臣の悪政もあり、滅亡寸前ともいうべき状態であった。治憲は元服の翌年、明和四年四月二十四日家督を継ぐと受け継ぎて国のつかさの身となれば忘るまじきは民の父母物と一首の歌に決心のほどを示し、上杉家の氏神春日明神に誓詞を奉納し、積年の旧弊の打破と財政建て直しのため大倹約令を出し、率先弱行し、あらゆる困難を排除して断行した。そして農村の振興に意を用い、こうぷち.せきぜき「籍田の礼」を行って荒蕪地を開発し、黒井堰、飯豊穴堰を築造して農地を拡張した。「樹芸役場」「縮布製造所」「製藍染物役場」「陶焼場」うるしこうぞなどを設置し、漆、桑、橋、青苧、紅花を値え、「養蚕手引」を分かち、米沢織りの基を作るなど種々の産業を開発し、国産を他領に販売するに不良品売り出しを取り締まって、氷く繁盛するように注意するなど、そなえもみぐらきめ細かな施策をとった。凶歳に備えて「備籾倉」を建設し、救荒植物の解説「かてもの」を配布した。また風俗を乱す者を取り締まり、教学を振興し、落校輿譲館、医学館好生堂を創設して人材を育成するなど、百方苦心して藩政を安泰にした。天明五年、養父重定の心情を思さんかかんい、三五歳で重定の実子治広に家督を譲り、鷹山と号し、餐霞館に隠居した。隠退に当たり、義弟治広に「人君の心得三箇条」を伝授した。一、国家ハ先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物にハ無之人骨肉一、人民ハ国家に属したる人民にして我私すべき物にハ無之候一、国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民には無第8編之候右三条御遺念有間敷候事天明五巳年二月七日治広殴机前世にこれを「伝国之辞」と言っている。治広と父重定は鷹山の後見をなりさだ請い、鷹山も決心して政務の万般を聴いた。治広退隠の後、十二代斉定からも懇請されて後見した。たねみつ天明七年八月、実父秩月種美重病のため急ぎ出府した際、江戸城に呼けんでんばれ、将軍家斉から国政の賞賛を受けた。それより名君鷹山の名が喧伝されることになった。文政五年三月十二日、米沢に没し上杉家廟所に葬られた。一享年七二歳。法名は元徳院蹴聖翁文心大禅定門。E222一七二九(享保U年〉生大塚氏慎一八O七(文化4年〉没享保十四年八月三十日、上江村黒谷に父氏頼、母坂田氏の長男として生まれる。七郎次と称し、精斎と号した。志を立てて宝暦七年十月一日、藩主種美に上書して大坂京都方面に遊学することを願い出て許さるすきさいれ、久米訂斎、留守希斎に師事し、学ぶこと三年、同十年五月帰国し、種美、種茂、種徳三代に仕えた。種美に従って江戸へ出て、柴田剛四郎、多田蒙斎、(子井黙斎に学んだ。安永二年物頭に進み長柄組、次いで同五年鉄砲組を預かり、更に勘定奉行となった。安、氷七年学校(明倫治憲(花押)堂)師範に任ぜられ、同九年、学校師範兼勘定奉行に任ぜられた。天明元年四月、大坂留守居を命ぜられて登坂し、同四年十二月、隠退を願い出たが引き続き勤務を命ぜられ、多年の功績によって二O石加増、合わせて一三O石となった。天明七年十一月、同九年七月、寛政三年七月、同四年九月としばしば隠退を願い出たが、そのつどいましばらく勤める1165ょう差し止められ、寛政五年九月一日六五歳になって初めて引退を許さ