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概要

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物明倫堂行習斎に学び、後進んで宮崎学校に学び、明治十年高鍋小学校訓導三等補となる。十二年六月山梨県東八代郡に赴き、養蚕・製糸およびフランス流ブドl酒醸造法を学び、数年後桑苗を持ち帰り、みずからも植えほかにも勧めて、高鍋授産場設立に尽力した。同二十年九月、石井十次が岡山孤児院を開設するに当たり、これを補佐し、周年十二月同志五名と謀り、児湯郡上穂北村茶臼原に、将来院児の移住地に備えて、原野五十余町歩(約五Oヘクタール余〉を購入した。二十五年夏石井の招きに応じ、岡山孤児院会計事務を担当した。二十七年四月、茶臼原農林部設置に当たっては、真鉄夫妻は年長院児六O名を率いて茶臼原に移住し、住居建設・開墾・耕作など、石井院長を助けて茶臼原分院経営に院児らと辛苦をともにした。三十四年六月、清国人正二品厳修に招かれ天津に赴き、日本語学校の教師となり、日本居留民子弟のため小学校を建てみずから教べんをとった。三十七年二月日露戦争が起こると、天津駐屯軍経理部に所属、第二軍の糧米三、000石、鉄道材料などの兵たん部輸送に活躍した。三十八年母の病の報に急きょ帰朝し、看病わずか十一日でその死に遭い、三十六年米国留学から帰り茶臼原農林部を興していた長男真琴も三十九年病死した。岩村はこれに屈せず、院内に養蚕の術を教え、多くの収益をあげ、大正三年一月石井院長永眠の後は、未亡人を助けて院事をみること九年。知事表彰、七年の内務大臣の功績状が輝いている。九年孤児院を辞して自邸に帰り、晴耕雨読郷土の史実、史跡を探求し、旧藩主秋月歴代の誠忠事績を調査顕揚することに努め、後進のため人計るところ少なからず、昭和三年十一月十六日大礼記念章を授けられた。六年推されて高鍋郷党協会長となり、会を誘導し、高鍋・上江の町第8 tfm村合併を推進するなど、地方文化の発展に貢献した。」l四年五月二十九日天寿を全うし霊天に帰る。享年八二歳。墓は道具小路田の上墓地にある。(宝暦1年)生一八二二(文政5年〉没h-圃圃園宝磨元年七月二十日、高鍋藩第』・・圃圃園調圃周囲圃固たねみつh-聞臨画圃六代藩主私月種美の二男として江λId--曹司嵐山戸一本松邸に生まれる。母は筑前'Lm / Jn!,j'bH臨書;/入切dwv脳什秋月藩主黒団長貞の娘ハルで、種3hmm司、、4 E圃キル汁ぷNml陪也圃上茂は鷹山の実兄で八歳年長であっ4・・酒咽・・・た。幼名は松三郎、後に直松と称- aド一週回国した。宝麿十年米沢落主上杉重定の娘幸姫の婿養子となり、直丸勝興と改名した。母ハルは米沢藩第五代上杉綱憲の孫娘であるから、松三郎は綱憲の曲目孫に当たる。明和三年将軍家治の前で元服し、従四位下に叙せられ、家治の一字をもらって問巨大弼治憲と改名した。上杉家へ養子の内約が調った折、高鍋藩の家老三好善太夫重道はその縁を喜び、誠意を込めて所信を書き、成長の後も折ぎみ節ご覧くだされたいと松三郎君に訓言を献じた(善太夫略伝参照)。また上杉家に引き移る喜びの前に、更に心を尽くして五か条の訓言を書き綴はなむけたてまつるしよそうり、「奉臆書」として贈っている。二通の訓言は、聡明な松三郎に深い感銘を与え、常にその座右に置き生涯反省の資にしたという。現在も上杉家に保存せられている。先年、原本のコピーを町図書館にもらい受けてある。それには高鍋藩学の伝統精神が明らかに脈打っており、鷹山の治績のうえにもりっぱに生かされている。うえすぎようざん上杉鷹山七五r…、"' -、、奉臆163書一、兼々御父君の御庭訓のごとく、忠孝の御事第一の御勤片時も御