ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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物の診察治療に従ったことは衆人の注視の的であった。彼は年来の信念を貫き、四十一年小丸上に独立し、精米業および米販売業を経営した。誠実、正直、勤勉な人柄は顧客の信頼を一手に集め、商売は大いに繁盛した。大正七年三O歳の時、四国八十八箇所の巡礼に出て、帰ると水谷坂八十八箇所に参り、その荒廃を歎き、新八十八箇所建立を発心した。たまたま弘法大師生誕一、一OO年を迎える前で、好期を逸せずと、適地を東光寺村に求め、雑木を払い準備に当たった。昭和三年仏像彫刻に適した石を発見、石工仏師を大分県から雇い、小丸川原に作業場を設け、家業を嗣子に譲り専心製作に励んだ。その間自身も技を学び、六年完成、早速東光寺山東面を開山、八十八仏像を安置した。これが新八十八箇所である。その後習い覚えの彫刻技術で、弘法大師石像一体、仏具一式、大師堂二一0平方メートル四方屋根瓦ふき、内部組立丸木材使用でほとんど自力をもって建築を完了、九年三月二十一日、安置入仏式を挙行した。参拝者は跡を絶たず。持団古墳八五基の霊の供養、戦没者の慰霊を併せ、大小各種の仏像七百余体を彫刻した。第三の事業は裏参道の横穴開削事業で青の洞門の禅海和尚を思わせる。これは昭和十六年太平洋戦争が起こり、待避壕の必要から設けたもので壕内に自作の三三仏を安置している。終戦後はひたすら、英霊と古墳の供養と、町民の安全祈願、信者や老人の親睦慰安の場として、囲碁用具、茶の湯の家も特設している。彼の念願の道路開通は果たせなかったが、五十年その功績が認人第8編められ観光協会の表彰状を授与された。五十二年一月十九日享年八九歳をもって大往生した。僧名弘覚、戒名法寿院弘覚求道居士、道具小路田ノ上墓地に埋葬した。いわむらかねよし岩村兼善一八四三(天保凶年)生一九一九(大正8年)没天保十四年十一月四日、高鍋石原に生まれ幼名を虎雄と称した。藩校明倫堂に就学の後、江戸に出て安井息軒に学んだ。戊辰の役に当たり、藩主秋月種肢は米沢藩が上杉鷹山以来の親密な関係から、順逆を誤らないよう説得のため特使を送った。この特使に選ばれた岩村虎雄、坂田潔の二人は明治元年六月、京都を出発、戦乱の奥州に赴き危険と困難を克服して米沢に達し、速やかに官軍に降伏するよう内命を伝えた。米沢藩は帰順が許され岩村らは面白を施し、その功により、氷年高一五石の加増があった。1162明治維新の後、官界に入りしばらく県に勤めたが、明治八年一月海軍省に転じ、横須賀造船所から本省に入り、十五年海軍権少書記官、同年末少書記官に進み、十九年海軍主計少監となり、海軍大臣秘書官に補せられた。その後本省と横須賀鎮守府との聞を出入りし、二十一年主計大監となり、翌年横須賀鎮守府監督部長に転じ、三十一年(一八九八)五月主計総監同時に予備役に編入された。三十七年貴族院議員に勅選せられ、大正七年二月十一日(紀元節)には多年貴族院議員にあって尽くした勲功により金杯を下賜された。同年九月海軍主計少将となり、十一月二十七日従四位に叙し勲二等瑞宝章を授けられたが、同日没した。享年七七歳、法名は勧成院殴性善日道大居土と称し、墓は東京青山墓地にある。一八五八(安政5年〉生一九三九(昭和H年)没安政五年二月十二日、高鍋村大字北高鍋字道具小路の父岩村又八、母いわむらまがね岩村真鉄萱島のし子の二男として生まれ、幼時萱嶋復馬に養われていたが兄亀太郎が早死したので復籍して岩村家を継ぎ、石井万士口の娘静子と結婚、男三女をあげた。岡山孤児院長石井十次の義兄である。資性温良、藩校