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概要

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辰子は推されて岡山孤児院第四代の院長となり、大正十五年の院解散に至るまでその遣業を受け継いだ。解散後、辰子は柿原政一郎とともに清算人となり、残された異常児や、再び帰って来る者の世話をした。いったん社会に独立した者も、不治の難病に冒されたり、再び孤独になった者は、茶臼原に「帰って」来る。いつも男女別の隔離病舎を用意して清算人はそれらを受け入れるのであった。未亡人石井辰子は、昭和二年三月二十一日、六五歳でその奮闘の生涯を茶臼原で終わり、十次のかたわらに葬られた。いちきぎ』いち一木儀一一八七四(明治7年)生一九三六(昭和日年)没物明治七年六月十三日、高鍋町脇に父琢二、母ケサの長男として生まれる。厳格な母のもとに育ち、宮崎中学から熊本第五高等中学校予科に進み、明治三十七年東京帝国大学医学部を卒業した。卒業と同時に見習い医官として歩兵第三連隊補充大隊へ配属になったが、日露戦役中で傷病兵の還送多く、間もなく東京予備病院に転属となった。同年八月第十六師団第一野戦病院付として出征し、各地に転戦して功績を残した。平和克服とともに同師団軍医部部員となった。一木儀ー人日本がドイツに宣戦の布告をすると、独立第十八師団軍医部部員として出征、青島攻略戦に参加し殊勲を挙げ凱旋した。その大正三年八月、第8編功により四年十一月功四級金鶏勲章を授けられた。その後十年七月には陸軍一等軍医正、第十九師団軍医部長となり、次じゅいで第二師団軍医部長、大阪衛成病院長を歴任、大正十五年には陸軍軍医監に進級して第四師団軍医部長となった。在職一年にして陸軍軍医学校長に転じ、同時に軍隊胸膜炎調査会副会長となり、調査会の使命達成に献身的努力を払った。昭和六年五月陸軍軍医総監に任ぜられ、七年四月現役を退いた。軍医学校在職三年四か月、その間天皇陛下行幸の光栄に浴し、整形外科教室、防疫部研究室の新設など多くの業績を残した。日常生活では軍人の厳しさの中に情操豊かでユーモアに富み、手先が器用でテーブルを作り、料理などにも優れケlキやカステlラを作って楽しんだ。大工仕事や料理のほか万剣、書画類にも趣味を持っていた。現役を退いた後、東京目黒の自邸に住んでいたが昭和十一年四月二日、六三歳をもって没した。正四位勲二等功四級を受けている。墓は舞鶴城跡の西、野首の墓地にある。いわおかやすきち岩岡保吉一八八九(明治泣年)生一九七七(昭和臼年)没岩岡保吉高鍋町の名勝地、高鍋大師開山の主岩岡保吉は、明治二十二年十月九日、香川県に父与平、母キヌの三男として生まれる。同二十九年一家八人高鍋に移住した。幼少のころから体躯優れて強健、小学校を卒業すると、固い志望を持ち、町内の文房具店に奉公した。仕事は車に文房具類を満載して隣接のそれを五か年続けた後に、大字北高村々の学校を巡回する出張販売で、161鍋小丸秋月撲医院の車夫に住み込み、昼夜の別なく、遠近を間わず医師