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概要

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物もなく補助もなき時にあたり、何の縁故もなき児女を集めて親しく撫育したるは実に石井夫人にてありき。多くの補助者の中に立ち、三百の児女の母として必要なる、偏せず、党せず、多言せず、他人けだの秘密を知らざるがごとくすることの如何に難きかは、蓋し他人の想像の及ぶ所にあらざるなり。夫の常に心得として寸時も忘るることなきものは「他人の悪を意に止めず」というの一事なるを思はば幾分か、此の消息を知るに足るべし。また石井夫妻が最大の敬愛を捧げた炭谷小梅が品子の葬儀の席で述べた言葉の中に、人第8編お父様(十次をさす〉は時としては子供等に懲罰を加えて、厳訓なさる事もありましたが、お母様(品子〉は未だかつてきる事のありましたのを見受けませんでした。そうして常に愛の足らざるを心配なさって、いかなる愛情をもって彼等を暖め慰むべきやは、お母様の念頭よりいつも離れることが出来なかったに相違ありません。それはある時お母様が私にこんな事を話しなさったことがある。わたしはまだ子を設けしことがない。それで子を思う真の親の慈悲を味知ることができぬ。もし真味を知ってその心を心として彼等を撫育すベすることが出来たならば、少しは彼等を慰むる術もあるならんに、一人の子供だになきは返す返すも遺憾であると涙と共にお話になった事がございます。この一言にでもお母様がいかに博愛で、いかに慈悲深きお方でありしかは推して知ることができましょう。この海山もただならぬお母様のご思は子心にもよく刻み込んで忘れてはなりません(小野田鉄弥著石井十次伝)。明治二十八年三月、品子は三女基和子を生み、過労と結核に倒れ別居して養生に努めた。この年の夏は岡山市内にコレラが流行し、孤児院内にも寵病患者が発生し、石井十次も感染して避病院に隔離され、八月二十九日退院したものの、この間に品子の病状は悪化し、十次が退院してる〈二週間目の明治二十八年九月十二日永眠し、岡山市東山山麓に葬られた。享年三一歳。九月二十一日、十次は日誌に次のように記している。e-骨C大柱折れて全家将に覆らんとす。・:ああ寡言温順の彼がこの大事業に、いか計りの関係を有したりやは今日に及んでますます顕はる。夕陽すでに没して四囲静寂として「チンチロ」の声暮色を透かしてそ一ぞおも予が耳に達し、坐ろに亡き妻を想って惜しむ。ああ予はいかにして可ならんか。1160墓は岡山市東山山麓と茶臼原十次の墓のかたわらとにある。一八六一二(文久3年)生一九二七(昭和2年〉没文久三年出生。福岡の人。関西校卒業後、孤児院専任の看護婦として招き、看護婦としての仕事のほか、年長女子に看護術を教授することを委託した。品子夫人の没後、明治二十八年十二月十六日、石井の継室となり、多病の石井を世話し、数百の孤児養育の中心となった。そして石井の健康に万全を期し、三人の石井辰子石井辰子法律学校(現在の関西大学)を創立した吉田一士の未亡人で夫の病死後同志社看護婦学校に入学。石井十次が明治二十五年四月から五月末まで京都同志社病院に入院した時、辰子の働きぶりを認め、同継子を養育し、院母としての重責を果たした。大正三年一月、石井が亡くなると、大原孫三郎、大庭猛が相次いで院長となったが、大正十年、