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概要

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寺に比べて神社は、国の保護もあって古い社もよく残っており、明治になって戦没の英霊を祭る招魂社も造られ、昭和十四年四月から護国神社と改称した。仏教信者の人々も鎮守の社は、氏子の一人として祭礼に参加するのが当然とされたが、終戦後は制度の改革もあり、二十六年四月公布の宗教法人法によって従来の社格や公的祭礼も廃止された。明治初めの排仏毅釈運動は町内の寺々や仏像などを失わせたが、終戦後の混迷と改革は町内の神社やそこに伝わる習俗記録を失わせる結果を招いた。そのうえ台風の災害も加わって神社の荒廃を増大した。明治以来、人々の誇りでもあった鎮守の森も大きな被害があり、町民の精神生活にも影響があった。キリスト教については、武藤朕一の「高鍋基督教伝道史」の冒頭に次の記事がある。明治十一、二年ノ比(明治十一年ノ秋或ハ十二年始メノ頃〉長州ノ医師林某ナルモノ高鍋出身ノ医師荻原百平氏ト共ニ宮崎病院ノ医員タリ。一日高鍋一一来リ堤氏旧宅ニテ有志者ヲ集メテ説教セリ。是高鍋ニ於ケル基督教伝道ノ端緒タリ。化石井十次が岡山で金森通倫牧師によって洗礼を受けたのは、明治十七年十一月で、高鍋にもしだいに信者が増えていたと考えられる。明治二十一年七月に現在の聖母幼稚園の所に教会が設立され、増野悦輿伝道師が牧師として就任した。信者は五O名ほどであった。二十九年七月に橘瀬小学校跡に高鍋キリスト教会堂がしゅん工したが、野口末彦伝道師、城重雄、岩村真鉄らの尽力の結果である。文天理教は明治四十三年十二月に、町内十日町に、天理教高鍋宣教所が設立され、大正九年には天理教高鍋支教会に昇絡した。戦時中は、十六年から舞鶴神社の造営工事が進められ、十八年三月に第3章落成式を挙げた。今日の舞鶴神社である。戦後は日本国憲法の制定により信教の自由が認められ、神社に対する制度も改革され、宗教法人法のもとに新たに発足することとなった。こうした制度の変革や新憲法下の社会生活の変容は、神社軽視の風潮をも招来したが、国力が復興し、生活が安定するにつれて、しだいに落ち着きを取り戻すようになった。更に産業経済の急速な進展に伴って、複雑な社会問題や人生不安も増大し、町民の宗教生活にも影響が現れるようになった。神社町教育委員会発行の「高鍋の社寺と教会」中から主なものを選んで大字別に次に記す。ハ門北高鍋1熊野神社(元無格社〉道具小路はやたまのおのかみことさかのおのかみ〈〈りひめのかみイ祭神速玉男神事解男神菊理日売神戸例祭十一月十九日ハ由緒2イ祭神ロ例祭ハ由緒3イ祭神ロ例祭ハ由緒(高鍋の文化財第六集)の七月十三日建立年月不明多賀神伊主社弊な(諾2元尊:村社道具小路七月十三日十一月十九日創建の由来不明、延宝七年三六七九)再興、明治四年村社となる。通称「デジョゴンサ」〈大将軍様〉。稲荷神字よ社賀2(魂E元神2無(み格倉よ社稲Z〉魂E神2御〉み屋敷旧二月初午1029旧九月初午興国二年(一三四一)創立、明治二十四年現在地に遷座。