ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
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盛大な開場式を行った。翌二十六日から一般に公開、大阪市から招いた市川鯉三郎一座の歌舞伎公演によってこけら落としが行われ、高鍋上江ことぷきさんばそうはもちろんほかの地区からも観客が押し寄せた。出し物は寿式三番皇、桐一葉片桐誠忠録、義経千本桜などで珍しい一流歌舞伎を、重箱持参で心ゆくまで楽しんだ。入場料は一等一円、二等八O銭、三等六O銭で連日一、二階席ともに満員であった。舞鶴座はこのようにして誕生し、その後映画演劇を初め、各種行事に利用され、町の文化ホlルの役割を果たし、併せて東町一帯の市街整備にも貢献したのである。昭和九年、大福座が姿を消した後は、町内ただ一つの劇場として事変、戦争と時局の重大化していく中で、時勢に即応した活動を続けた。終戦後は白井銀二経営の映画館となり、名称も「銀映」から「東映」に変わり、支配人佐久間誠治の努力が続いた。しかしテレビの普及に伴い映画館の不振を招き、昭和三十三年閉館するに至つfこ化昭和十五年(一九四O〉は日本紀元二千六百年に当たり、全国的に多くの記念行事が実施された。当町の映画館「記念館」もその一つで下畑田の現地に、浜屋鶴治によって企画建設され、名称も公募によって名付けられた。戦時下の悪条件の中、工事は大阪の劇場建設業者の手で進められ、十七年二月落成を見た。一、二階六OO席を有する映画常設館であった。『戸』・吉田,。、i~,、館文終戦直後の台風で倒壊し、高鍋青年学校の建築大工養成部の手で再建に取りかかった。不運にも棟上げを終えたとたんに、枕崎台風に襲われた。戦後の荒廃した環境の中で町民は記念館の再建を待望し、浜屋も町民への映画提供の使命感から再建を進め、ついに新記念館を完成した。町内二つの映画館は戦後、町民に数多くの映画を上映提供したが、第3章東映」が閉館の後は「記念館」のみとなった。テレビの普及で経営難から次々に姿を消す中で記念館は今日もなお映画の灯をともし続けている。1057