ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
- ページ
- 52/54
このページは ac_cho_0019-3_takanabe の電子ブックに掲載されている52ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ac_cho_0019-3_takanabe の電子ブックに掲載されている52ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ac_cho_0019-3_takanabe
教育と文化孤児院音楽隊が、大福座で公演した記事が石井十次日誌に見えるので、その前から設立されていたことが分かる。この劇場は演劇などの興行物のほか、講演会、総会行事などに広く利用された。四十四年一月には改築上棟式が行われ四月に落成した。その天井は一メートル四方の格子形に仕切られ、ここに「天井広告」を一般から募集した。天井の広告は熊本市の辻恵三郎の筆で商店などの広告の絵が色彩豊かに描かれていた。当時の大福座の座主は福田勝水で、天井広告の発起者は木原与三郎であった。第7編大正三年の桜島噴火の際は擢災者救護のための慈善演劇会、活動写真隊の慈善興行が在郷軍人会、婦人会の主催でこの劇場を会場として催された。同十一年二月には高鍋中学校設立速成同盟会創立総会が同じくこの劇場を会場として開催され、これを発端に県立中学校設立をめぐって東西児湯地区の激しい運動が始まった。芝居、活動写真、以上二つを連結した連鎖劇、浪曲、琵琶演奏など四のぼり季折々に興行され、劇場の入口付近には常に峨の旗が並んでいた。昭和に入ると活動写真は映画となり、発声映画がトーキーの名で登場し、無声映画時代の活動弁士は姿を消していった。大福座も既に建物の老朽甚だしく、町内に舞鶴座が別に誕生したこともあって、しだいに不振に陥っていった。野菜市場に転身したりしたが続かず、昭和九年九月改築に踏み切り、県もこれを許可したので取り壊すこととなった。建物は当時あっせん細島町助役であった山内武玄(上江村出身)の斡旋で細島のほうへ引き取られた。しかし時局は既に重大な時機にさしかかり、大福座は再建を見ずして、明治・大正・昭和三代に及ぶ長い使命を終えた。舞高鍋町の中央通、東町付近は大正十三年に田を埋め立て市街地を造ったもので、埋立地と呼んでいた。ここ鶴座1056に劇場舞鶴座が完成したのは同十四年三月である。現在黒木フlド東店の所である。大正十三年十一月七日、町内六日町の千手五雪堂で「高鍋舞鶴合資会社」創立総会が聞かれ、劇場舞鶴座の建設を約し、定款が決定した。翌々日九日には早くも地鎮祭を執り行った。山名紫川日誌には無限責任社員として、山名勝重、児玉清二、武末喜久治、立光開次郎、黒木常土口の名を挙げている。新市街地の中央に一見洋風二階建てを思わせるみごとな劇場が出現して町民の喜びと期待は大きいものがあった。間口一O問、建坪一七O坪、工費一万八、000円、八幡市の原工務所、原宗三郎の設計監督によって完成、三月二十五日、三百余名の来会者によって