ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
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館に約二O名の有志が集まり、協議の末、高鍋音楽協会(金堀伸夫会長)を発展解消して高鍋文化協会とし、会長に秋月種英を選び、最初の事業として、米国黒人バリトン歌手マクヘンリl・ボートライトを招くことにした。この企画は三十三年十一月に実現し、東小で独唱会が聞かれた。しかし高鍋文化協会はその後活動が盛り上がらず解消した。四十七年四月、高鍋町文化協会が新たに設立され、その規約も制定された。同年十一月一日から三日まで同文化協会主催の第一回総合文化祭が行われ、絵画、書道、写真、生花等七部から約二OO点の作品が町公民館に展示された。三日の夜は町体育館で芸能発表会が行われ、高鍋児童合唱団、メモリー合唱団、コール高鍋、謡曲高鍋観世会、詩吟、日本舞踊、伊達バレースタジオの洋舞などを町民に公開した。町文化協会はその後やや停滞の期聞を経て五十一年規約並びに組織を改正、十一月には町民文化祭展示会を聞き、二日間に二、000名の町民が観覧した。翌年三月には文化芸能祭を開催、出演団体二ハ、ステージ数一九、出演者は三OO名に達した。五十二年秋の文化祭からは町内レい,凋1a小中学生の書画展も加わり、参観者は四、000名近くに上った。その後小椋美義会長のもとに順調な活動を続け、展示会と芸能発表会を十一月初旬に統合し、町民の定例行事として定着するに至った。町文化協会の歩みの中で、その組織を挙げて取り組み、ついに町民の運動にまで高まったのは町民文化ホlルの建設である。町民の署名運動に始まったこの運動は町並びに町議会を動かし、町民が永年待望した文化ホlル(町中央公民館・老人福祉センター)の建設となって結実した。文第3章町文化協会はその規約にもあるように、町内各文化団体の連絡、協調と育成を図り、町民の文化向上に寄与するのを目的とし、次の四部門制で活動している。第一部門第二部門短歌、俳句、詩、小説、随筆、歴史研究等絵画、彫塑、デザイン、書道、写真、工芸、古美術等華道、茶道、花弁園芸等音楽、日舞、洋舞、演劇、詩吟、民謡、琴、尺八、謡曲等郷土史研究の機運が高まり安田尚義を中心に、同好の高鍋史友会土が集まって研究会を設立することとなり、安田のほか橋口淳、黒木清三郎、長友竹伊(教育長)が発起人となって「高鍋史友会設立趣意書」が配布された。その発会式並びに総会が聞かれたのは四十五年六月二十日であった。初代会長に安田尚義を選び、機関誌史友会報の発行、史跡めぐりなどが決定された。会員は当初五十余名でその後、年ごとに増加した。史友会報は四十六年三月に創刊号を発行し、当初は年二回刊行(一回は郷土資料集)したが、現在はページ数を増加して年一回の発行となっており、郷土史並びに史跡、名勝の調査研究、史料の収集、刊行、文化財の保存と顕彰などに活動を続けている。文化団体は右のほか、古くは高鍋郷友会をはじめその数も少なくないが、既に社会教育の項などで触れたので、ここでは省略する。第三部門第四部門ムノ、庫リ場町民は演劇、映画、歌舞音曲などの観覧を通して生活に潤いと喜びを得ている。明治以降劇場や映画館がその役割を果たした。当町の劇場について次に記す。大干高高鍋町松原町に劇場大福座があった。高鍋聖母幼稚園の道を隔てた南側付近である。明治三十年十月に岡山1055座