ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
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教育と文化る。亀舟会の金田一代(藤間亀舟)は四十五年以来、町中央公民館の日舞講師を務め、町内日舞隆盛の基盤を培った。町内の日舞各グループは町文化協会の文化芸能祭などの行事に出演発表するほか施設の慰問などを行っている。第7編洋舞のほうは町内出身の立川まり子が、日向市の伊達祐子バレl教室の教師となって、町内にバレl教室を始めたのが最初である。立川が高鍋を去った後も、高鍋商業協同組合の二階ホlルを会場に、毎週バレl教室が聞かれ二十余名の少女がレッスンに励んでいる。四華道と茶道町内の華道・茶道の歩みは旧藩時代にさかのぼり、古くから行われたが特に記録などに残っている資料は少ない。明らかな戦後の状況について述べる。高鍋町の華道(生花)を今日のように盛況に導き、併せて県華道界の基礎づくりに、大きく貢献した人に、押川柳水がいる。福岡県の出身で、本名を本田力子といい、福岡技芸女学校を卒業、大正六年松風流生花に入門、同十一年松風流師範の免許を受ける。翌年朝鮮に渡り各地で生花を指導したが、昭和十八年、夫の郷里高鍋に帰り、町内と宮崎市を中心に松風流生花を教授した。二十年松風流宮崎支部を結成して支部長となった。二十三年宮崎県華道連盟の結成に奔走し、連盟創立と同時に理事に就任、三十九年推されて同会会長華道となり、以来五十一年まで本県華道の発展に力を尽くす。五十三年、永年に亘る華道貢献者として県知事の表彰を受けた。押川は既に故人となったが、町内の華道は中央公民館の華道教室をはじめ、松風、池坊、未生、小原各流の生花が広く行われている。作品展示会も文化協会、町公民館などの文化祭、作品発表会そのほかに一般町民に公開されている。1054高鍋に茶道振興の基盤さつくりをしたのは、本多宗城(慶次郎)の義母、橋口宗園(ハルノ)である。橋口は和歌山県高野山の出身で、若くして茶を学び、後に大阪市で四十数年茶道教授をした。昭和六年の末、高鍋に移り翌七年宮崎市内に教場を設け茶道の指導を始めた。終戦直後に七七歳で没した。橋口教場を引き継いだ本多宗城は香川県の出身で、高鍋に移り住んだのは昭和二年である。延岡旭化成ベンベルグ工場に勤務し、橋口宗園に茶を学び、やがて茶の教授を始める。本多宗靖(フクノ)は昭和六年広島県から高鍋へ来て、夫宗城とともに裏千家茶道の教授に従った。終戦後、社会が落ち着きを取り戻すとともに茶道も復活する。茶道裏千家淡交会宮崎支部が結成式を挙げたのは、二十七年十一月で、初代支部長には宮崎県に裏千家茶道の灯をともした、本多宗城が就任し幹事長を兼ねることとなった。本多は支部発足以来、四十一年一月退任まで長期にわたり茶道に貢献、三十三年には県文化賞を受けた。退任の年の十一月、本多は八六歳で没し、夫人宗靖も五十五年一月に八九歳で亡くなった。橋口に始まり本多夫妻に受け継がれた町内の茶道は本県茶道界の隆盛に大きな役割を果たし、今日その門弟たちによって活動が続けられている。茶道五文化団体町内で活動している文化団体の中、既述のものを除き主なものについて略述する。高鍋町文化協会昭和三十三年八月発行の「明倫会報」に高鍋文化協会発足の記事がある。筏通りの現老人福祉館別