ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
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心に、付属建物を持つ。特に門をくぐった左側の木造瓦葺二階建ての建もみぐら物は旧藩時代の倉庫で、一般には籾蔵と呼ばれていたもので、島田御門の東、旧郡役所(後の県総合事務所)の敷地にあった。西南戦争の当時、西郷軍の仮獄舎に当てられ、穏健派の九烈士が捕えられ、投獄されていた。九烈士の一人秋月種節は、六月二十三日獄中で病没した。大字南高鍋十日町の安松家居宅は木造瓦葺二階建両安松家居宅て、延べ四六二平方メートルの建て坪を持ち、当町はり〈ぎの代表的商家造りである。ひとかかえもあるような梁、手作りの角釘を使い、えつり縄にはわらび綱を使っている。初代の礼蔵は酒造りをしていた。また明治初年、郵便局がここにできた。大字高鍋町中町にある安松家居宅(安松酒店)も町家建築の代表的なものである。木造瓦葺平屋建て、九九平方メートルの建て坪を有し慶応初期に建てられたもので、みそ、しようゆを造って藩邸に納めていた。旧藩時代商家の屋敷については、近世史第七章「城下町の生活」で述べたとおりで、半ヶ畝、本ヶ畝(一ヶ畝)の家々が町筋に今日もその面影をとどめている。限られた土地を有効に使うため、後には建築法も工夫され、二階家が多くなった。上町、中町、六日町、十日町を通して半ヶ畝、本ヶ畝の町家、が年を追って姿を消していく中に、中二階に明かり化取りの窓を持った町家が、わずかに古い商家の名残をしのばせる。大字上江字平原(小薄)の東平原公民館は、学校教東平原公民館育の所で触れたように、明治十三年(一八八O)上江小学の校舎として建てられた。旧藩時代萩原に建てられた藩の倉庫で「萩原御蔵」と呼ばれていた建物を校舎に使用するため移築したものである。当時は南に玄関を設け東西流れであったが、後に現在のように南北流れとなった。二O聞に三間の瓦葺二階建てである。老朽などのこと文第3章もあり改築の話もあったが、倉掛博志(公民館長)らを中心に協議の結果、文化財としての価値を考慮し、改装補強のうえ、現在のまま保存使用することに決定し今日に及んでいる。柱、梁などの用材、屋根の構造など往時の特色が見られる。2彫刻類町内に現存する仏像のうち、主要なものを次に記す。聖観世音菩薩立像と釈迦如来坐像大字上江字山下坂本清所蔵。木造高さ七六センチ、無銘。宝冠を持ち、台座なく右手一部欠損。鎌倉後期作と推定される(文化庁調査〉県史蹟調査報告では安養寺の持仏としているが、大泉篤範調査によると宝福寺の持仏となっている。明治二年廃寺の際、山下の住人坂本安五郎が自宅に迎えて祭った。町内の仏像中評価の高い木彫の一つ。釈迦如来坐像も坂本清所蔵で観世音立像とともに同家の小堂に安置されている。高さ七六センチで台座はない。ロ神変大菩薩像(役の行者)大字上江字川田、川田神社所蔵。木彫椅像、高さ二八センチ、大円のづし刻銘があり厨子に入る。大円は新潟に生まれ後に西米良村の新立寺の住職となった。木札に「奉安置神変大菩薩悲願円満祈念導師大先達法印源盛文化四年(一八O七)十二月施主良慶院」とある。もと上江河田寺の本尊で現在は川田神社内小堂に安置する。主な仏像イ阿弥陀如来像と脇侍すぐり大字持田字勝利、持田公民館所蔵。木造阿弥陀如来立像、高さ六二・五センチ、台座(二七センチ)の上に安置、両手欠損し彩色もはげている。観音、勢至の両脇侍はいずれも高さ三八・五センチ、台座を有し姿J、1009