ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
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で前進的な中に、あくまで郷土の伝統を重視しながら、独自の境地を開拓したものとして高い評価を受けている。町内には等を始め尺八、三味線、詩吟、民謡、太鼓などの邦楽グループも数多く、それぞれ指導者のもとに練習を励み、機会あるごとにその成果を発表し、町文化協会、町教委主催の文化祭などに広く町民に公開するのが、例年の行事になっている。終戦後の二十二年四月、就学児を持つ母親たちが「たらちね会」と称するグループを作り、音楽の勉強を始め、高鍋高女の加藤二郎教諭に指導を受けた。毎週木曜の夜に練習し、やがて男子も加わり混声合唱団に成長した。発足から八年後、加藤は県音楽協会から音楽文化賞を贈られた。加藤は学校並びに地域の音楽向上に努力し、藤原義江、大谷例子、四家文子、高田せい子、石井みどりらの音楽家、舞踊家の高鍋公演にも尽力した。こうした活動と併せて作曲家としても、高鍋高校校歌、高鍋農高寮歌、成人式の歌、わが高鍋、高鍋町未亡人会の歌、交通安全子供行進曲、高鍋音頭など五OO曲に及ぶ作品を残している。洋楽レい,aql昭和三十一年十二月、清義時らの尽力でワルタl・ハウチッヒピアノ演奏会が東小講堂で聞かれ、一、五OO名の聴衆を魅了した。ハウチッヒは世界的な新進ピアニストとして知名の人であったが、このときの児童生徒たちの鑑賞態度や演奏会後の素朴で明るい歓迎の姿に感激、その後三十三、三十八、四十、四十四年と日本公演の機会には足を延ばして、高鍋を訪問しピアノ演奏会を町民のために聞いたのである。こうし文た町民の音楽傾倒の流れの中で、三十三年の米国バリトン歌手マクヘン第3章リl・ボlトライト独唱会、三十五年末のフィリピン文化使節ネナ・デル・ロザリオピアノ演奏会、四十一年のポlル・オレフスキlチェロ演奏会などが行われ、音楽好きの町民を喜ばせた。ぞうけい町内の開業医師金堀伸夫は音楽に造詣深く、みずからピアノを演奏するほか、作曲家としても多くの名曲を残した。金掘は木城出身で熊本五高から熊大医学部に進んだので、五高寮歌「椿花咲く南国のLをはじめ、旧六師団団歌「色は黒いが」同師団行進曲「銀杏城の明け暮れに」など全国的に知られた曲がある。戦後高鍋に帰り医院を開業、校医となり学校保健に尽力しながら、加藤二郎とともに高鍋合唱団を結成、そのピアノ伴奏を担当した。四十五年に高鍋児童合唱団が発足し、ライオンズクラブなどの協力もあり、金堀医院の二階で練習を続けた。しかし金掘はやがて病んで没した。金堀は高鍋西中、岡山康高等二O校に上る校歌、小林市民歌をはじめ多くの作曲を残した。三十一年に県音楽文化賞を受けたほか、三十四年には社会教育功労者として全国表彰も受けていvhv。「コーラスなでしこ」は、昭和五十四年六月に合唱愛好の主婦らによって結成され、米田十紀子を中心に四O名ほどの会員で発足した。宮崎女子短大の斎藤正浩教授の指導のもとに熱心な練習を続け、毎年チャリティlコンサートを聞き町民に美しい歌声を提供している。ナチュラルサウンズは四十九年三月、高鍋高校吹奏楽OBを中心に結成、メンバーは七名であった。理屈抜きに音を出し、音楽を楽しもうとの意図のもとに、あるときは高鍋大橋の下で、自動車のライトを使って練習し、あるときは寺の地下室を借りて練習するなど数々の困難を克服しながら、会員も二O名を超すまでになった。毎年定期コンサートを開くほか病院などの慰問演奏を行って好評である。舞町内には亀舟会、松川寿栄会など多くの日本舞踊のグループがあり、指導者を中心に芸能の習得に励んでい1053E面