ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
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教育と文化三浦賜隆(昌見)は蚊口浦の出身で、増田朴翠、斎藤鈴山らに書を学び、教育書道にも尽力した。特に漢字に優れ、宮日美展、日本書芸院展の無鑑査となった。同じ蚊口浦出身の井上時風(忠雄)も教職にあって書道に取り組み、宮日美展の無鑑査となった。増田勝山(勝〉は町内萩原に住み、教職を退いてから特に書道(漢字〉の研究に熱意を燃やし宮日美展、毎日書道展、日展などに入選を続けている。右のほか重信紀美子、新名俊子らがおり、新名は長く町公民館の書道部の講師として努力したが先年故人となった。なお町公民館の書道クラブのほか町内に書道塾も年ごとに増加し、子供から高齢者まで男女を問わず書道を学ぶ人が増加、書道展も聞かれている。第7編音楽と舞踊柿原政一郎の父正一について、「柿原正一」の中に「柿原さんは四国新居浜在住時代すでに宝生流の謡曲を習われていたので、明治四十年帰県されるや、大平克三先生と共にちょうどその頃高鍋町に芽生えたばかりの宝生流謡曲グループ五雲会を何かと教導しその教化につとめて下さった」と中川助三が書いている。町内の宝生流謡曲は「五雲会」の名称で明治の末に始まり、大正、昭和と続き今日に及ぶ。特に大正期には舞鶴公園や町内の寺院等で謡曲会を聞いている。主な仲間は、安松亀助、千手土蔵、森田惣助、吉田瓢郎、久保昌業、金丸正義、中川助三、渡辺虎近、久保田鶴次、田中正善、三好実、都原久一らであった。戦後になると宮崎から三重野老士口を招いて練習し、清泰雄、小寺信利、都原通義らが中心になって力を磨いた。高鍋観世間好会も戦後、秋月種蔵、井上藤義、上野誠三、谷山吉也らチ日楽を仲間に練習を励み、宮崎市で開催の観世流謡曲大会などに出演した。1052高鍋出身の邦楽家のうち、特に県下に著名なのは秩月伊津子の等の演奏並びに作曲活動である。秋月は大正六年、町内小丸に生まれ、幼にして等曲に入門、東京YWCA内の家庭科を卒業、宮城道雄に師事し、その大師範を許され、長姉の創立した秋月社中を引き継ぎ主宰して今日に及ぶ。昭和二十八年宮崎県音楽文化賞、四十八年宮崎県文化賞(芸術部門)を受けた。昭和三O年宮城道維を迎え県公会堂にて演奏会四四年四五年四八年第一回秋月伊津子作品発表リサイタル東京公演「日向路の調べ」「この道五十二年」等によるワンマンショl公演文化交流親善インド公演五四年そのほかNHKの多くの放送番組に出演、全国に等曲を通して日向の調べを提供した。作曲の分野でも「稲田姫物語」「白鳥の譜」「暖流」「鶴富」「牧水」などを発表し好評を博した。更に県内の学校めぐりを通して児童生徒に邦楽(等、三絃、尺八)の演奏、講演を行うなど精力的な活動を続けている。秩月の等演奏について、邦楽評「足音」「壁胃」「姫」筆演奏の秋月伊津子論家町田佳声は「純度の高い持情性、芸術性、テクニックの素晴らしき」を挙げて称賛した。独創的