ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
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I河辺幽石は教職にあって、長く教育書道の興隆に尽くしたことは、既宮崎市に住む。第3章かったのが惜しまれる。をはじめ県書道界の重鎮として活躍し書道の振興に努めている。現在は1051文年ごろ高鍋高校書道部の指導に従った。しかし既に晩年で期間も長くな術部門〉を受けた。章一国道研究「墨林会」を主宰し、宮崎県書道協会会長高師卒業。同校で尾上柴舟に師事して、かな書道を専攻し、昭和二十八県書道展特選五固など多数の実績を残し、四十五年度宮崎県文化賞(芸イヒ(二代)夫人泥谷ナルを推す。泥谷夫人は長崎県大村市の出身で東京女格、高鍋東中ほか教職にあって書道に精進し、日展(書道)入選七回、もある。なお斎藤は高鍋町にゆかりの深い書家として、高鍋中学校長増田朴翠(作一)は戦後二十四年文部省中等教員検定(書道)に合斎藤は高鍋高校の書道教師で特にかな書きに優れ「かな基本帖」の著のかな書きに意欲的に取り組んでいる。活躍している。に記したが、各種の書道展に出品、入選を重ねた。特に若山牧水の短歌を置いた。当時の児童、生徒たちの中から、優れた書道家が育ち各地で(河辺幽石作製)道に尽力し、県下の教育書道展に実績を残し、終戦後の書道興隆の礎石f立辺幽石(周矩)がそれぞれ、町内の学校に長期にわたり勤務し、教育書階|従五位従四位正四位従三位正三位従二位る資料は残っていない。昭和十年代半ばごろから、斎藤鈴山(芳弘)河雅松縮楽7)(明治三十七年十月、秋月種樹が没した後、町内の書道について特筆す遷を掲げておく。号渓堂山三年主主ι、lllpt1lJ三十六湾外史まさに独特の境地と言って過言ではあるまい。次に種樹の雅号などの変雲畑外史…ー|古千歳亭居士Lぃ千歳受j二楠子古香受香錦鶏侍班錦鶏郎桑茶園うことができる。その個性ある書風と作品の発する高尚な品位風格は、うに「秋月種樹公名墨集」(日向日日新聞社〉によってその一斑をうかがべている。書作品は数多く残っているが、さきに絵画の項でも触れたよの書風を樹立され、書としてすぐれた作品が多い。」(河辺周矩資料〉と述秋月種樹雅号表唐風に移る。明治十七年以降の作品は顔法に入って顔法を脱した種樹公独自幽石は「その(戊辰の役碑〉後、豪放聞達な中唐、顔真卿の書風(顔法〉研究にあるかと思われる。」(秋月種茂と秋月種樹)と記す。高鍋の書家河辺年代年齢藩政時代のm歳I前lbλ却歳台~初歳頃風の影響もあると言われるが、唐宋の書体から更に上って六朝あたりの摘要ている筆蹟はその代表的なものである。後の独自の書風は富岡鉄斎の画文久二年(壬皮) 30歳幕府入り慶応、の初め33歳頃明治元年(戊辰) 36歳---司36歳~ 49歳風山顔陽真卿風(顔法)明治5年~ 14年(4 0歳~49歳〉明治15年~晩年明治1 5年1月( 50歳〉(千歳亭に帰る〉( 50歳~ 65歳)明治20年(丁亥) 56歳23年58歳(錦鶏問抵候〕明治26年(葵巳) 6 1歳明治32年67歳(片瀬別荘に入る〉明治34年(辛丑)69歳明治3 7年10月11日(絶筆梅・賛〉(危篤の報宮中に達するや従二位勲二等〉明治3 7年1 0月17日義去かぞえ72歳った。明治七年に書かれた維新殉難碑(高鍋舞鶴公園に現存)に刻まれ