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概要

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教育と文化を得ている。町内の絵画同好者のためにも中央公民館の活動などを通して指導に当たり精力的な活動を続けている。辻野精一も町内出身、高鍋農学校を卒業し、終戦後外地から引き揚げ県庁に勤務しながら油絵に精進、宮日美展の無鍛査となり、たびたび個展を聞きユニークな作品で注目されている。第7編道北昭介は町内六日町に生まれ、福沢一郎に師事する新象作家協会会員で、毎年同会の作品展に出品してきたが、現在は同会を退会している。東京、福岡、鹿児島、宮崎など次々に個展を聞き個性豊かな作品で高い評価をうけている。児童の美術教育にも関心が強く、夏休み中の図画工作教室にも講師を務めて活躍している。金丸通夫は都農町出身だが、高鍋に居住して油絵に精魂を傾け、美術教師をしながら、優れた作口聞を制作し続けてきた。個展の回数も多く、宮日美展特選二回ほか入選が多い。そのほか社会科副読本の挿し絵、児童図書の挿し絵にも健筆をふるっている。河辺一周は高校の美術教師でグラフィックデザイン部門で活躍、宮日美展、二科会ともに無鑑査である。版画にあっても外国の美術展に出品、たびたび大賞を受けている。右に挙げたほか、菊池(桐山)忠夫、田中隆士口、荒川宗徳、岩佐正彦、宮越博、奥村満彦らが油絵でそれぞれ優れた作品を発表し、金沢一生は版画に特異の境地を示している。北諸県郡山田町に生まれ、町内嶋野に嫁いで来た森露子は中学校で美術教師をしたが、退職後、染色に取り組み、ふるさとの美を染色を通して追究し、日展、光風会展にたびたび入選、宮崎県展で特選三回を受けるなど活躍目ざましく、個展も高い評価を受けた。彫刻の分野では萱嶋稔、田中等、森啓子らがおり、いずれも宮崎大学で彫刻を学び、彫刻作家の少ない宮崎県美術界にあって注目されている。田中は四十五年、萱嶋は四十九年それぞれ宮日美展に特選となった。森は五十二年以来特選三回、同展無鑑査となり、更に五十七年には無鑑査の人々に贈られる「宮崎日日大賞」を受けた。なお絵画のところに挙げた岩佐正彦は、三十一年彫刻部門で特選を受けている。1050写真部門の活動は終戦後に始まった。その中核となって活動を盛り上げたのは相場惣太郎である。終戦後いち早く高鍋写真クラブを結成し、会員の育成を図るとともに、各種の写真コンテストに上位入選を続け、宮日美展無鑑査となり、二科展にも連続入選した。郷土の民家、民俗、信仰などに取材した作品を追究し、「日向の田の神と民家」「神々の里」等の個展で高い評価を受けた。相場を中心とする写真集団の中から、河野敬、山崎(後藤)啓子らが優れた作品を発表し、山崎は宮日美展の無鑑査となった。町内出身の石井正敏も早くから写真制作に取り組み、特に「アカウミガメ」の生態写真にユニlグな業績を残し、その保護対策にも努めている。その記録写真を集録した、ジュニア写真動物記「ウミガメ」(平凡社)を刊行した。幕末から明治初期にかけて、川崎松隣堂(重遠)が書家として令名をはせたことは、秋月種樹がみずから墓碑とその碑文を書いた「松隣堂先生墓」(田の上墓地)によって知られる。明倫堂の書師を勤め、島田、持田両小学でも書道を教授したが、その作品が残っていないのが惜しまれる。書道秋月種樹の蓄については、その詩文や絵とともによく知られている。しゅうけい安田尚義は種樹の書について「その書また独特の遁勤なものであった。明治の初年は山内容堂と共に頼山陽に傾倒して山陽そのままの書風であ