ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
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竹鳩の歩み赤道を越えて大東亜戦争従軍記明倫堂記録おやじの道高鍋信用金庫経営の理念鳴呼尾鈴今も美したかしん印年のあゆみ斎藤角太郎先生伝創立八十周年記念誌ウミ力メ高鍋藩明倫堂文庫図書目録歌集和風美神I桑水流芳雄前田博実ハ一三三八58 57郷土史伝記社史伝記学校史児童書資料歌集高鍋町高鍋信用金庫編旧制高鍋中学校第凶回卒業生同窓会高鍋信用金庫高鍋農業高校高鍋農業高校石井正敏町立高鍋図書館小松充子二七O四五二七/\一五一一九O一五二四三一一六四四58 58社記史録58随木目59 59 59 59 58 58秋月種樹は漢学、漢詩に秀れたが、絵画にも多くの作品があり、独特の境地に達した。安田尚義は「その絵画は明治三十五年東宮御成婚に際し、松上鶴巌上亀の双幅を献納し、乙夜の覧にも入ったほどであるが、初めは狩野派、それから文人画、更に手の込んだ彩色もある画風となった」(秋月種茂と秋月種樹)と記している。昭和三十五年八月、日向日日新聞社が編集発行した「秋月種樹公名墨集」に書とともに絵画が紹介されて、その一斑をしのぶことができる。絵画・彫刻・写真b,a- L,安田守世は尚義の祖父で、安田家は高鍋藩の絵師を務めた。守世は竜川と号し、狩野派を学び幕末から明治にかけて活躍した。比木神社の渡殿に五代李仲が復元した双竜玉を争う絵が明治十年(一八七七)の火災で社肢とともに焼失のため、八代李仲の守世が改めて描き、現在同神社文第3章(安田家所蔵)「宝船七福神に残っている。「折衷和漢図」「群鶴図」図」(高鍋町所蔵〉などの作品がある。秋月飯山町は創立当時の東京美術学校を卒業した日本画家で、号を可山といい新小路秋月家の出身である。花鳥山水に優れ、人物画も巧みである。町内西小学校に可山作の「平重盛諌言図」の大作がある。有国四郎は熊本県の出身で、明治四十二年東京美術学校を卒業、黒田清輝に油絵を学び延岡、高鍋雨中学、宮崎師範で美術を担当し、絵を描くかたわら、各町村小学校の図画教育にも指導的役割を果たした。文部省展覧会(文展)にもたびたび入選している。昭和十九年戦争が過烈となり、高鍋を去り小豆島近くの島に移り、戦後二十一年かの地で世を去った。終戦後は日本画の島田晃州、油絵の久保吉文の活動が目立った。久保は中学の美術教師をしながら、同好の仲間と「二土会」をつくり、二十四年に日向日日新聞社が美術展を企画すると、これに応募し一回、二回、三回と連続奨励賞を受けた。後に福岡へ移った。島田は貧窮に耐えながら日本画に特異の才能を示し、後に新潟県柏崎市に帰住、院理事長として活躍している。日宋美術三十年以降になると当町出身または町内居住者で絵画部門に活動する人々が増し、優れた作品が少なくない。平原美夫は高校野球の名監督で著名になったが、石井柏亭に師事して油絵を学び、文展ほか各絵画展に入選し、高鍋高校で美術を担当した。野球の指導が本職のようになっても、絵画制作の意欲は終始持ち続けたが、学校を退職した後、早く世を去った。平原の後任、石井秀隣は町内小丸の出身で宮日美展の無鑑査(油彩)となったほか、県内はもちろん東京、福岡などで個展を聞き画壇に好評1049