ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
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教育と文化一客茶揖す来ヲシノレ煎にテニノレ凡門ニ辺戸石ニナ泉到クヲル、?及。ム第7編城下の町並みを眼下に眺め、はるかに日向灘を望みながら悠々自適の日々を送った公の風姿がしのばれる。万歳亭が完成し、種樹の住居がそこへ移ると千歳亭は、舞鶴神社の社務所となり、また各種会合の場として使われた。大正期には城跡の管理人の住宅に当てられた。昭和十七年秋月邸新築に際し、邸の一部として南側に移し設置した。万歳亭は右の秋月邸の西側に建てられていた。主屋と別棟からなり、現在は別棟のみが残っている。宮田にあった三好退蔵の住宅は晩翠学舎に使用されたが、明治十八年間舎後は空家になっていた。二十四年夏、これを二の丸へ移築し、三十一年二月、種樹は万歳亭記を作り、ここに亭の名が決まった。秋月家は廃藩の打撃、西南戦争の混乱から資産を多く失い、華族世襲財産二万円に達せず危機に瀕し、公は一年間福島に滞在して、串間地方の山林払下げに努め、この年ようやく目的を達した。そのとき旧臣などは万歳を連呼して祝意を表した。万歳亭記の一節を記す。「・更ニ城南ノ地ヲ相シ第宅ヲ備フ、堂アリ室アリ漸ク体裁ヲ存ス(中略〉日向ノ南端福島ノ地ハ旧封ノ属邑タリ。往年諸村ノ人民杉樟数万株ヲ植エ以テ先公一一献ジ内庫-一帰ス。維新ノ還封ニオヨビ、此ノ山謬ッテ官林ニ属シ今其ノ下付ヲ請フ。山一旦聴カザルノ理アランヤト。乃チ之ヲ官ニ請フ。官其ノ情ヲ察シ之ヲ允ス。是一一於テ財産殆ド旧ニ復ス。挙族及ビ藩士ノ悦ビ知ルベキナリ。(中略〉山林指令ノ降ルヤ衆皆万歳ヲ唱フ。余謂へラク、此ノ声紀セザルベカラザルナリト。乃チ居ル所ヲ号シ(古香公文稿による)かわらぶき万歳亭は主屋が建て坪二00平方メートルの木造瓦葺平屋で武家屋敷特有の玄関を東側に有し、別棟の離室は二六平方メートル、木造かやぶきの平屋であった。屋敷の南側にみごとな冠木門があり、離室の西側に土蔵が建ち庭には梅の木が多く植えられていた。昭和十七年、老朽のため万歳亭の主屋を取り壊し、その東側に新邸が建てられた。このときに別棟のほうも屋根を瓦に改め、内部も改装し、縁側、台所、湯殿などを増設した。大字上江、馬場原にあり、石井十次は岡山県医学校に入学するまで、ここで育った。木造瓦葺平屋、建坪一O二平方メートル、一部補修され、現在は館野家の住居になっている。邸内の一隅テ万歳亭ト日フ」石井十次生家次生誕の家」の案内板もある。108石井十次生誕の家(県指定文化財〕に、徳富蘇峰の書になる「石井十次先生誕生之地」の石碑が立ち、石井十次顕彰会が四十五年に建てた「石井十石井十次生家は昭和四十七年九月二十六日宮崎県指定文化財となった。大字上江黒谷にあり、黒水家は秩月家に従い筑前秩月から移って来た旧家。町内に残存する代表的な上級武士住居の様式を備える。木造萱葺平屋の一二三平方メートルの主屋を中黒水家旧宅