ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
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り、歌作に打ち込んだが、肺を病み、十四年一月没した。遺歌集「井田諌雄歌集」がある。その中から掲げる。たかむらの黄にとほるいろしづかにて又歩みだしぬ自転車を押してしづかなる水に鮪子の群れをりて洲の先をめぐる潮は迅しも荒川左千代も高鍋出身で高鍋農学校から鳥取高農に進み、各地の農事試験場に勤務、歌誌アララギに作品を発表、戦後二十三年八月満州で没した。「荒川左千代歌集」が五十二年に刊行になったほか昭和万葉集に一三首が集録されている。歌集から二首を記す。かへりみて何に悲しむこのタベせまき湯殿に子を洗ひっつはてしなき青草原に沈む日のいまか入らむとしつつ明るし井田、荒川に少し遅れて同じくアララギ会に所属した石丸恵守は、四十五年に歌集「鈴南集」を刊行、昭和万葉集に七首が集録されている。作品三首を挙げる。化苦しかりけむいまはの時にその枕抱きて噛みてこらへき汝は長男逝く裸体画のたびに学童ら笑ひあげ美術史幻灯会めちゃめちゃになる流れの底の石かげに砂のめぐりゐて文素直になりし吾は立ち去る第3章石丸は戦後、城戸松之輔らと高鍋短歌会を始め、現在は舞鶴短歌会となって月々歌会を聞き、高齢者の「もくせい短歌会」「さXなみ短歌会(川南)」の指導に当たっている。町内の短歌グループは右のほか、安田尚義の始めた東児湯山茶花短歌会、小松充子の指導を受ける「なでしこ短歌会」三島敏子を中心とした「あじさい会」「たんぽぽ会」などがある。三島に師事するグループは県内をまとめて歌誌「花冠」を発行している。高鍋の俳句は藩政期以来盛んに作られたが、記録は残俳句の歩みっていない。杉田作郎の日向俳壇史(日向文庫)に漢詩の項で記した日高誠実(梅瀬)の俳句を「如淵」の名で挙げている。草の戸にガラス窓あり冬の梅いつしかに夜の明けてゐる神楽哉如淵のほかに「高鍋の俳人」の項があり五名の俳句も出ている。また明治の末ごろに高鍋に「常緑会」と呼ぶ句会があり読さしの史記列伝や秋の雨一玄の句ほか一六名の俳句を挙げ「其他略」と注記がある。当時蚊口に「松風会」もあった。正岡子規が俳句の革新を提唱し、新しい傾向の俳句が全国に広がり、宮崎でも杉田作郎らを中心に活動が行われた。その影響は高鍋にも及んだと推察されるが記録として残っているものは皆無に等しい。大正三年二月の宮崎毎日新聞に「舞鶴クラブ」で高鍋上江両町村句会が聞かれた記事が見える。戦前から戦中、戦後にかけて町内の俳句活動は休止の状態が続いた。そうした中で、西村節子が昭和三十六年度宮崎日日新聞読者文芸賞(俳句の部)を受賞した。西村は町内中町の出身で旧姓は立光、延岡市の西村氏に嫁いだが、川南の国立病院に入院したころ、武末二雲から俳句を習い、宮日の読者文芸に投稿し、その成績を認められたのであった。1043