ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
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女性の文章として珍しいものである。冒頭の部分と詠草を次に記す。慶応三年といふむ月ばかり、浪華に旅立す。さるは年頃先立給ひし夫の御墓にまうでんの心、一日もわするL聞なきに、我が子誠実が此年噴、君の命をうけて、東の方に物学して有けるが、今は浪華迄かへりゐて、よき折にしあれば、のぼりこと度々いひおこしぬるに、さればとておもひ立なりけり。(以下略)詠二首草とく起ていざ見にゆかん朝桜匂ひをこぼす露のひぬ聞に葛の葉のうら珍しく吹かへす朝けの風に秋は来にけりこのような桂園派の和歌の流れは明治から大正へと続くが、明治三十年ごろから短歌の近代化の運動が起こる。落合直文、輿謝野鉄幹、同晶子、正岡子規らがその先駆をなした。しかし高鍋では中央歌壇の動きをよそに、依然として旧派の和歌が作られた。宮崎毎日新聞、日州新聞、宮崎日報等に大正期を通して高鍋和歌会の記事が見える。員リ松力松我庭の池に宿れる月かげをゆりうごかしてなく蛙かな化手塚=と1=1隆小雨ふる池の汀の岩かげに文つまよぶ蛙こゑしきるなり拡質荒カツ第3章人しげき巷のほこり時の間にしづめてすぐる夕立の雨矢野雄盛蔦かつら注連とも見えてかLるかな神さび立てる鵜戸の岩屋に岩キ4鉄真宵の聞の春雨いつかやみぬらんけさはればれと雑子の声する桝予久治本友だちとひさごたづさへ鮎子つり帰る夜道にけぶる春雨岩教切冨1沖つ島ほのかに見えつ海原にすむ月かげの光りてる夜は今井市pよー・県雨ふれば町も早めにとざされて軒の灯火かすかにぞ見ゆ高鍋出身の歌人で、新しい短歌を作ったのは安田尚義が最初である。安田は早稲田大学を卒業の後、函館商業、鹿児島一中の教師を勤め、大正十一年太田水穂の主宰する潮音社に加入、歌誌「潮音」に短歌を発表、後に同誌の選者となり、昭和二年には歌誌「山茶花」を鹿児島で創刊主宰した。歌集に「群落」「尾鈴嶺」「尾鈴嶺以後」があるほか史伝などの著作も多い。終戦の年六月、高鍋へ帰住し九州ラジオ歌壇、日向日日新聞短歌欄の選者を務め、二十八年には宮崎県文化賞を受け三十年には宮中御歌会始めの儀に陪聴の光栄に浴した。改造社の新万葉集に二四首、講談社の昭和万葉集に七首の作品が選ばれている。次にその代表歌を記す。1041