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概要

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教育と文化る第三節文化活動第7編明治以降現在までの、町民の文化活動を、明治、大正、昭和の各期ごとに記述すべきところであるが、資料も不備なため、文芸、美術(絵画、彫刻、写真、書道)、音楽、舞踊、華道、茶道の各項目について、なるべく年次を追って活動の概要を記す。文τtt"3ミ明治維新になって文明開化の社会へ一歩を踏み出したが、人間教養の基本は儒学であった。したがって漢文に明るく漢詩をよくする人が多かった。特に高鍋上江は明倫堂のひざ元に位置するので漢詩に優れた人も少なくない。秋月種樹は一O代種肢の弟で、明治天皇の侍読を務め書画にも秀作を残したが漢詩にも異才を示した。大正二年、田村化=一郎が編集した「古呑公詩紗」がある。五言古詩、七言古詩、五言律詩、七言律詩、五言絶句、七言絶句の六種に分類し種樹の漢詩を集録する。古呑は種樹の雅号である。高鍋城跡に代表作を刻んだ詩碑があり、文化財のところでその詩を挙げた。次に明治五年(一八七二)欧米視察の旅に横浜を出航に際し、病床の親友山内容堂に贈った詩を掲げる。万里長風送ニ海域一。帰来何日共ニ杯航一。老夫有v一波為v君寵。不ニ是尋常女児涙一。戊辰の役に政府軍の高鍋藩隊長として従軍した鈴木来助は漢詩をよくしたが、次の作がある。漢詩の人々ルヲチユノナルヲ雲外半峰見ニ羽州一。懸軍使覚路程悠。ノズラシテニムヲ昨日戦場人未ν返。働央山中求ニ髄棲一。羽州庄内藩(山形県)との激戦に小隊長福崎良一(二八歳)が戦死を遂げたときの作である。1040ばいらい明倫堂教授旦両一誠実は号を梅瀬といい、詩文に優れ著書も多い。明治せい十九年公職を退き千葉県市原郡大久保村に隠棲し、梅林を作って「梅ヶ瀬」と称し、書も巧みであった。梅林を造成したときに漢詩一O首を作った中から一首を次に記す。スルハゾ一酔高歌和者誰。テハヲハムヲ池辺拍ν手魚求v餌。渓小上窓移時ニ空白i有リ鴬老促猿ノ詩窺堤長発は児湯郡長、宮崎農工銀行頭取などを歴任し功績を残したが、詩文に長じ書をよくした。明治三十五年ごろ詩友と画肪吟社を結び定日に例会を設け唱和したという。明治四十三年ごろの作を次に記す。タノズルヲヲ聴=一人演-一平語一スニ平家小史託ニ琵琶一。三世栄枯十余巻。巻急頭拍第緩弾戒情騒転者加城勇雄は明倫堂教授を務め詩文の才能は早く世に知られ著作も多い。漢詩についても「漢詩集一巻」「竹窓学習余藻第一集」そのほかがあるが(史友会報第五号)容易に披見できない現状である。右のほか坂田奏、田村義勝、小寺秀信、勝浦朝雄、神代勝文等詩文に優れていた。明倫堂教授日高明実(耳水〉の夫人蔦子は、梅瀬の母であるが、「此花日記」と題する旅日記を残した(日向文献資料)。慶応三年一月下旬、高鍋を出発、亡夫の墓参のため大阪に旅したときの日記で、文中に和歌を挟み、みごとな文章で貫かれ、特に新しい短歌