ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
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h-oJlρ6持田槍ハ合堤大字持田檎谷にある。元禄十四年(一七O一)十月着工、人足延べ人数二、九七五人であった。改修が度々行われ、最近では四十一年、四十五年に実施した。7雲雀山堤大字南高鍋雲雀山にある。宝永四年(一七O七)一月十五日着工、奉行中元寺圧内、久庭源内、御目付後藤喜平次、人足延べ一、四一九人であった。8太平寺畑田用水路一般に太平寺井手または勘右衛門水路と呼ばれている。太平寺から宮田川の水を取り、脇、蓑崎を経て舞鶴公園下、黒谷、高月を経て畑田に通じ、その間多くの支線を出し町内の広大な区域に濯瓶用水を送る。長友勘右衛門が藩命を受けて慶長十七年(一六二一)春完成、本町の最も古い用水路で町内一帯の水田を養う大動脈である。9広谷用水路化木城町川原から小丸川の水を取り、木城・高鍋両町に及ぶ広大な水田を潅概する。明暦三年(一六五七〉十二月に着工して以来、努力を重ね、七代秋月種茂は特に資材を投入して工事を進めたが完成に至らなかった。明治四十四年九月、木城椎木の山口弘康が中心となり、比木神社で起工式を行い、大正元年六月通水に成功した。その後、昭和四年七月には宿坂から宮越までの水路延長を実現した。広谷用水路は長年月に及ぶ苦難の歴史を積み重ねて今日に至ったが、用水路のほとんどが土造のため、これをコンクリート舗装に改修する工事が三十六年に始められ、四十五年三月、実に九年間の歳月をかけて完文第3章成した。10竹鳩原用水路木城町木寺の頭首工から小丸川の水を取り、左岸に沿って八キロ余ずいどう(うち、隆道三キロ余〉の水路を通し、竹鳩原一帯を潅概する。この用水路は大正初期に計画されたが、同八年に耕地整理組合が発足し、工事に着手したのは十三年十月で、翌年七月完成をみた。その後、川原発電所が上流に建設され、災害などもあって取水に困難を生じた。昭和四十四年から同四十六年にかけて、現在の位置に近代的な固定堰が完成した。用水路も、漏水や隆道落盤などがあり、三十八年から四十五年にかけて、コンクリート舗装に改めた。佐久間土手みずよけ上江の馬場原から畑回、小丸出口を経て萩原に至る水除堤防で、小丸1川の洪水を防ぐために造られた。三代秋月種信が招いた越後流の兵学者佐久間頼母が落命を受けて完成したので、この名がある。堤防上には蝋はぜを取るための櫨の木を植え、堤防の下に排水溝があった。西小学校南東から小丸出口に至る聞を、現在も佐久間土手と呼び、往時の面影を残している。12筏の火防用水路宝永田年(一七O七〉筏の大坪甚右衛門ほか四名が屋敷裏に防火用の水路を通すよう願い出て許された。水回に水を使う時期を除いて八月から二月までの条件つきである。水路は旭通の四季亭の北側を東へ進み、右折して道路を南へ横切り、中町の西側を過ぎ、永友医院の西から火産霊神社境内を抜け、お仮屋跡(則信商店)の西を経て、太平寺井手の支線に接続する。市街地を貫く珍しい火防用水路である。1027