ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
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第3章土持高綱碑銘梁山棟公大禅定門死去年月日記入なし。高鍋高等学校内、正門西側に建つ。秋月種茂の明倫堂記(漢文)が刻没。明倫堂記碑1021文土持兼綱碑銘性海金公庵主嘉吉二年(一四四二)コ一月十二日石碑町内の石碑の中から主なものを次に挙げる。士持氏関係の墓で領主として明確なものは次の二基である。二人者アット叫ビ天一一拝シ地一一謝シ〈下略)」(土持財部家史実調査),41レU化財となった。棟公大禅定門ノ文字日光一一映ズ。是レ正ニ財部左衛門尉高綱ノ法名也。二月、郷土史家岩村真鉄により発見された。四十七年四月、町指定の文ヲ掘起シテ、竹校ヲ折リテ填塞セル土ヲ除ケパ刻字ハ金粉燦トシテ梁山寺領を寄進し厚く信仰したので、土持家の墓が残っており、大正十五年播マレル下ニ数寸ノ一辺ヲ見ハスモノヲ発見ス。予就テ樹根ヲ抜キ碑石.建立という。延暦年間以後天台宗となり、後曹洞宗となった。土持氏が鍬ヲ振ヒ次々ニ掘出ス。終リニ弘子女史(木村姓、土持氏の子孫)樹根南高鍋太平寺にある。太平寺は高鍋最古の寺院で養老五年(七二一)僧侶である。土持墓地発見当時の記録を次に記す。「(前略)老生屈セズ土持墓地墓碑の型式は無縫塔である。墓石は三O基を超え多くは太平寺関係の9日日j日岡田!。。。。。。。。。。日間。000000。。日日日回目安養寺跡秋月墓地(高鍋の史跡)l左近2ヲチョウ3種貞H.里子5松子6感子7好子8好子9左門10:クニ11 ;甚玄G;σ1111囚1囚1四日@@@可jgMaaQ凶山回v図@@@( i@~(f'O 0 G 0 OODO.:J 0000O0f~'I" "~~{'IふHjAJ8ぺJ土持族僧侶庶不民明。5 6 10 1 122 3 7 8 9 13 15 16 1718 19 2123 24 25 27281 294 142022263031桜樹土持墓地略図(高鍋の史跡)