ブックタイトルac_cho_0019-3_takanabe
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-EOゆれ高鍋製糸株式会社跡ほか明治二十三年三月、授産場は株式組織となり「高鍋製糸株式会社」と改称、平田宗雄が社長となった。二代石井十次、三代柿原正一と続き大正九年休業する。その後片倉製糸株式会社、産業組合日向蚕糸社、片桐製糸株式会社を経て、昭和十七年高鍋町役場となった。一5朝晩学校跡上江馬場原にある。明治十七年夏石井十次が馬場原教育会を設立、菅原神社の拝般を教場に、学齢子弟を対象として読書そのほか人材養成のための授業を行った。明治二十年まで四年間続いた。6上江お茶屋跡四代種政が五九歳で亡くなるまで八年間隠居所のあった所。小丸川の清流に近く、桜も多く、眺望のよい場所であった。種政、種弘父子の睦じさは拾遺本藩実録(巻之五)の随所に見られる。上江の山王にあり、7もひろげお茶屋跡北高鍋中鶴のもひろげにあり、藩公が茶会を聞いた所。七代種茂はここに能舞台を造り、広く庶民に開放し百姓、町人などにも能楽を観賞させ、君民和楽の場であった。8萩原お屋敷跡イヒ文北高鍋萩原にあり、三代種信の隠居所があった。高鍋大橋の南詰から少し西に寄った所。種信は家督を譲った後、高鍋に帰り藩政後見のほか、隠居所に能舞台を設け、たびたび能を催し六九歳で没するまで一0年間、家臣とともにこれを楽しんだ。第3章9刀工鍛冶場跡北高鍋南道具小路の岩下家にある。付近を通称鍛冶道具小路という。岩下家は藩お抱えの刀工師で、鍛冶場が残っている。そこにふいご、火防ぎ壁、火床、金敷、水舟、道具棚を保存する。道具棚には元づち、大づちなどの金づち、各種の火ばし、やすりなどの万工具一式のほか、万身となる玉はがねもある。鍛冶場の平面図を次に掲げる。秋月墓地nu上江の高月にある墓地で、藩主の菩提寺として大竜寺、安養寺、竜雲寺の三寺があった。藩主とその一族の墓のほか、大塚観澗、千手輿欽、堤長発、秋月左都夫、鈴木馬左也ら先哲の墓が多い。三寺は明治初年の廃仏製釈のときに廃寺となり、寺跡だけである。昭和四十七年四月、町文化財の指定を受けた。仕上場(床アリ)明リ窓土問ロ勺L←炭屋入口押戸入口(高鍋の史跡)5水舟E道具棚7横座岩下家刀工鍛冶場lフイゴ2火防き'壁3火床4金敷1019