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概要

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教育と文化基にのぼる。蚊口の円墳五基、永谷の円墳二一基、ひばり山、水谷原の第7編前方後円墳一基と円墳二ニ基、毛作の円墳四基、牛牧の前方後円墳一基と円墳一四基、大戸ノ口の円墳三基、青木の前方後円墳一基と円墳一一基、このほかに光音寺、老瀬などに横穴古墳二二基がある。昭和十二年七月二日に高鍋古墳一六基が県史跡の指定を受けた。更に十九年十二月十五日に一基の追加指定があった。高鍋藩主秋月氏の居城が高鍋城で、通称舞鶴城とい高鍋城跡ぅ。平安初期に土持秀綱の居城となり財部城と呼ばれた。その後伊東・島津両氏を経て秋月氏の居城となり、三代種信のときに高鍋城となった。明治の廃藩により高鍋城も取り壊され、石垣、城堀など一部を残すのみとなった。面積約七ヘクタール、本丸、二の丸、三の丸、詰の丸跡をはじめ、舞鶴・護国両神社、明倫堂跡、記念碑、記念物など多く、昭和十四年国指定の風致地区、五十二年一月から町指定の史跡になっている。現在は舞鶴公園として整備せられ、桜・梅・ツバキ-ツツジなどの花木も多い。二の丸跡の旧万歳亭跡や県内でも珍しい城堀の整備も最近年次計画によって進められ、面白を一新するに至った。町内には右以外にも史跡が少なくないが、町教委発行の「高鍋の史跡」から主なものを次に挙げる。その他の史跡明倫堂跡農業高校の南西隅に「明倫堂社」の碑がある。碑の裏面に「明倫堂高鍋教学之本源也安永七年藩主秋月穫茂建之」の文字を刻む。旧藩校の位置を示すこの碑は高鍋農高が建てたもので柿原政一郎の書である。この地は藩の倉庫のあった所で「角の屋敷」と言い、五代種弘の時、倉庫を仕切って「角の屋敷学問所」としたが、七代種茂に至ってこれを改修し藩校明倫堂とし、行習・著察の両斉を置き武士の子弟を教育した。本町教育の源泉となり多くの人材を輩出し、今日も町民の精神のよりどころとなっている。10182晩翠学舎跡南高鍋宮田にある。明治十一年八月、当時の三好退蔵留守宅を借り、実兄田村義勝が青年教育のため漢学塾を聞いた。晩翠学舎は既に明治の教育で述べた。明治十八年間塾、その建物は二十四年域内二の丸に移し、種樹の住宅「万歳亭」となった。高鍋町お仮屋跡3十日町の現在則信商店のある一帯が、旧藩時代のお仮屋のあった所で、藩の表向きの客人を接待し宿泊させた所である。明治以後は町役場となり、上江村と合併する昭和十三年まで続いた。4町役場敷地内の史跡高月寺跡慶長十年三六O五)初代種長のときに、高鍋城の鬼門(北東)に鷹つおe月寺を建て、後に高月寺と改めた。現在の町役場の所である。開山は清浄院真盛である。明治二年廃寺となるまで藩の祈薦所として重んぜられた。イ兵賦局跡高月寺が廃寺になると、従来の武道稽古所が、時勢の要求から兵備全般をつかさどるようになり、ここに移転し兵賦局と呼ばれた。明治四年ロの廃藩置県で廃止された。ハ土族授産場跡丘(賦局廃止の後、敷地は農地となったが、明治十七年、平原の平林忠恕ら土族授産場を新築し養蚕、製糸、機織の技能を授けた。忠恕は二十三年病気のため辞職し翌年没した。授産場は高鍋製糸株式会社になっ