ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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教育と文化を、県教委の承認を受けて地教委が任命することに改められた。県費負担教職員の任命権は、地教委の内申を待って都道府県教委が行使するとされた。また教育委員会の予算・条例原案の送付権を廃止し、教育財産の取得・処分権、教育事務関係の契約権などは地方公共団体の長の権限とした。第7編高鍋町の任命制による教育委員会は県内のほかの市町村と足並みをそろえ、十月一日に発足した。委員には秋月種志、財津吉隆、松山ステノが任命を受けた。県教委は委員の五人制を勧めたが当時これを採用した町村は少なく、多くの町村が三人制で発足した。右のうち委員長には秋月種萄が選ばれ、教育長には財津士口隆が就任した。その後、教育委員は五人に増員となり現在に及んでいる。第五節新教育の整備と発展就学前の教育高鍋婦人会によって設立された高鍋幼稚閣は終戦後、婦人会の活動も停止状態となり、それが幼稚園経営にも打撃を与えた。戦前戦後にかけて同幼稚園の主任保母を勤め幼稚園長をも勤めた平井タマの「私立高鍋幼稚園沿革史」によって再発足当時の状況を記す。高鍋幼稚園の再出発昭和二十三年頃になると婦人会幹部の多くは他界して残る人も少なく、婦人会も自然消滅の状態となった。二十六年のころには、会計面でもいろいろ困難が生じたので、PTAに幼稚園経営全般を委任し、萱嶋秀樹を中心に経営再建に努力した。二十八年四月一日、PTA経営となり(会長萱嶋秀樹〉秋月須磨子園長、平井タマ主任教諭らを中心に再出発した。幼児ブlムのため園児934高鍋幼稚園は一六O名となり老朽化の甚だしい狭い園舎と戦後の物資不足の中で苦闘を続けたのである。「私達は幼児を保育する重大な責任があるのだと自覚し、最低の場で最大の効果を目指して、先生達と研究を重ねた。その結果晴天時は圏外保育を、又園庭では栴檀の木陰を利用して青空保育を行うことにした。」と平井は当時のことを記している。二十八年六月、秋月家を中心にした明倫社の福祉事業となって経営主体が一時変更になった。これは設立当時の幼稚園長が秩月藤子の名儀になっていたことから明倫社のほうで誤解したのであった。幸い設立事情を記述した婦人会の記録が発見され、明倫社は幼稚園事業から手を引き、再びPTA事業に復した。二十九年四月、新しい幼稚園指導要領に則り「高鍋幼稚園園則」が作成された。創立当初の園則と特に異なる点は、経営費の問題が明記されたことで、創立当初の婦人会基金が姿を消し、経営の主体がPTAなので、園児からの保育料、入園料をもって主要財源としたのであった。この苦しい経営を補うために山葉音楽教室に園舎を貸しその使用料を財源に加え急場をしのぐことにした。こうした苦しい経営の中にも、水道施設、足洗場、水飲場、砂場、保育室、便所などの増築拡張を実現した。宮崎地区幼稚園連盟で、幼稚園