ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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教育と文化祭など特別な配慮がなされた。こうした努力が民主主義社会の進展や戦後の復興とも相まってしだいに自然な姿に落ち着いていった。特に女生徒の積極性を助長した点は顕著であった。新制高校の教育に限らず、戦後の教育は米国教育学との密接な関連もあって、新しい教育用語が導入された。さきに挙げた単位制をはじめ単一克尚子習]、カリキュラム、コア・カリキュラム、ホlム・ルlム、コース・オプ・スタディI、PTAなど挙げれば限りがない。教師たちはこれらの新しい用語に戸惑いながら、新しい教育に取り組んだのである。高鍋農業高終戦後、占領下という情況の下で新しい学制への移行校の独立はかなり無理を伴っても強行せざるを得なかった。総合高校・統合の際の高鍋農学校もその一例で既に触れたが改めてその後の経緯について記す。高鍋農学校は新制高鍋高校に統合になり、農業部または第三校舎と呼ばれ、その主要校舎そのほかの施設を義務制西中に貸与せねばならなかった。学校の性質上、実習地、作業室、実験室、畜舎などを有し、むしろこれらの経営が同校の重要部分を占めることは当然である。更に開校以来の伝統と環境を今後の教育に生かして行くうえで統合後の農業科は第7編問題が特に多かった。戦後の混乱がしだいに落ち着くにつれて反省と是正の考え方が生まれ、やはり農学校は新制農業高校として従来の校地に独立すべきだとの論議が高まっていった。昭和二十六年(一九五一)十一月十五日、高鍋町役場で東児湯各町村長会が聞かれ、高鍋農業高校独立期成同盟会を発足させ、会長に高鍋町長柿原政一郎を選んだ。この日、期成同盟会は、県、県教育委員会、県議会に対し高鍋農業高校独立の陳情を行った。翌二十七年一月三十日には児湯郡内町村長、議長によって構成された高鍋農業高校独立期成同盟評議委員会で同校独立の黙契が成立した。こうした児湯地区住民の熱望を受けて、二十七年五月三日、緊急県教育委員会が延岡市で聞かれた。高鍋農高沿革誌に次の記録がある。「緊急教育委員会は、延岡市に於て河谷委員長ら全委員、野村教育長、小高総務調査課長が出席して開催され、懸案の新設高校問題について協議。その結果、高鍋農業高等学校は、町が設備費を予算化し、二日覚書交換を完了したので、五月一日付で設置告示することに決定。校長には本庄高等学校長落合寅次郎氏が内定した。四O年の伝統を誇った高鍋農学校は、戦後の新学制の下、932一時総合高校の中に吸収された形であったが、ここに独立した農業高等学校として新発足することになった。新発足と同時に高鍋町が九六O万円を負担して改築の予定。又敷地も現在の三、000余坪では狭く、なお二、000坪を必要とみて、史跡として残る外濠を学校の中にとり入れて東の方に拡張、校舎も従来の南面玄関を東向きに変える計画である。」独立した農業高校には次の課程を置いた。本校農業科、畜産科、農産製造科本校農業科川南分校農業科、被服科全日制定時制同富田分校被服科右はいずれも一学級である。独立した高鍋農業高校はその位置こそ旧農学校のいわば古巣に復帰したのであったが、校舎の改築を初め問題が少なくなかった。校舎改築の同第一期工事が始まったのは二十七年十一月八日で、翌年の三月四日、学校本館、普通教室の落成式を行った。その後引き続いて特別教室、家庭科教室、農業施設二棟、温室、農産製造実験室、実習室、工作室、畜舎