ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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事項に従って黙々と実行に移された。しかし学年度の途中で学友や教師に別れを告げほかの学校へ移る生徒やその親たちにとっては種々の思いがあったに相違ない。校舎などはそれぞれ高等学校の校舎を譲り受けたものの、設備そのほかすべてに不自由のみが多かった。敗戦という厳しい現実の中で、町民は皆堪え難きを堪え、忍び難きを忍びながら戦後を生き続けていた。昭和二十五年四月末、西中は借用校舎の中平家建て五教室を高鍋高校へ返還した。次いで二十六年五月西中の敷地として大字持田字松ケ鼻て五二四番地の現在地が決定した。六月十日新校舎の建設工事に着工、十月二十日には旧農学校の借用校舎から新校舎に移転を完了した。十二月十六日に落成式を挙行した。校地総面積校舎面積本館ハ、六一七坪五九八坪二三O坪普通教室二五九坪使丁室総九坪工費七四七万円(西中沿革誌)学校教育翌二十七年十一月、西中の新校舎は六・三制優良施設校として文部省から表彰を受けた。第l章東西両中学校の位置が確定したので二十八年十一月二十一日、中学校区を現在のように改め、二十九年四月新入生から実施した。新制高等新制小・中学校の発足した昭和二十二年度、旧制中等学校の開校学校は新入生女募集せず、第二学年以上で過渡期の一年を過ごした。二十三年四月一目、町内の県立中等学校は新制高等学校に移行し、初代校長には、高鍋中学校長であった田内高次が発令された。つまり県立高鍋中学校、岡高等女学校、同農学校の三校を合併して、普通科、家庭科、農業科を置き、それに併設中学校を付設し、これらを総合して宮崎県立高鍋高等学校と改称した。そして旧中学校を第一校舎、旧高等女学校を第二校舎、旧農学校を第三校舎と呼ぶことにした。なお併設中学校は第三学年のみで、一年限りで姿を消した。三か所の離れた校舎、そのうち、第二、第三校舎はその主要部分を義務制中学に譲り渡することとなり、新制高校の活動も小中学校に劣らず困難の連続であった。「事務的な連絡会、委員会ごとの検討会、職員会が度々聞かれたが、時聞をかける余裕はなかった。学級の編成、校舎から校舎への移動計画、教室の割当、時間割の編成、校務分掌の決定、校舎毎の教職員の配置、やらねばならないことは山積していた。辛うじて開校したのは五月八日であった」と高鍋高校の「明倫」は記している。新制高校の発足は一年の準備期聞をおいて実施されたが、それでも地域の実情を無視して実施したため問題が少なくなかった。農学校の統合などもその一つで後に論議の焦点となり農業高校として分離独立の運動が起こる。新制高校の特色中主なものに単位制と男女共学制がある。教科課程の単位制は新しい方法で週一時間一年間の学習を一単位とし、卒業に必要な単位は八五単位を基準とした。教科は各コlスの共通必修教科毎の専門教科、選択教科とに分ける。男女共学は今日ではすっかり定着したが、当時は教師も保護者も、生徒自身も、更に社会全体が関心を持ち不安すら感じた問題であった。我が国の教育史の中で画期的なことだっただけに、教科指導はもとより、ホーム・ルlム、クラブ活動、体育会、文化931