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概要

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教育と文化に増築校舎三教室が完成した。中学校の発足は初めての制度であり、戦後の混乱した中での建設であって、どこの市町村でも苦労が伴った。本町では両小学校区を基準に二校を建設することとなった。しかし校地の確保には予算を必要とするので戦争と台風災害からの復旧などで財政窮乏の折から容易なことではなかった。そのためとりあえず旧高鍋青年学校の施設を利用して、高鍋東中学校に当てることとした。上江地区には廃校がないので、西小学校の校舎の一部、講堂、図書館等を借用し高鍋西中学校に当てることにした。中学三年間は新たに義務制なので、占領下是が非でも実現しなければならなかったのである。第7編昭和二十二年五月八日、県内の新制中学校は一せいに開校式を挙げ入学式を行った。高鍋東中、同西中はこうして誕生した。東中は青年学校長であった清義時、西中は県立高鍋中学から戸田正嗣がそれぞれ初代校長に任命された。東中沿革誌に当時の学級編成について次のような記録がある。「十学級の編成なるも当時は教室不足の為、四学級、二年、級、三年、一学級に編成し、一学級百名以上の組もあり非常なる不自由の中に一学期聞をすごせり。二学期には学校西側の倉庫及び作業場を教年点以,弓まー室に改築し三教室を増加するに及び、一年を六学級に二年を二学級に合計九学級に編成、ようやくにしてややゆとりのある教室となれるも、屋根は漏り窓ガラスもなき有様なり。」東中は開校当時一年生三O七名、二年生二三一名、三年生四九名、全校生四九八名であった。西中は全校生三O五名で六学級に編成した。教師のほうも国民学校、青年学校、そのほかの中等学校から寄せ集めて編成した。校舎のない西中の新しい敷地が決定したのは二十三年二月三日であった。中畑田の農協の南側、現在専売公社高鍋営業所のところで道路に沿った水田地帯である。この水田を買収し校舎の一部が完成したが、戦後の食糧増産を最も必要としているときに、農地を多く校地につぶすことには問題があった。一方、ここに両中学を統合する説もあったが、結局畑田の西中学校舎は、日本専売公社に譲り、新たに校地を物色することとなった。930昭和二十三年四月、西中は高鍋高校第三校舎(旧高鍋農学校)の本館、講堂、運動場などを借用し移転した。その後、軍政部教育課長スペンスの指示もあり、義務制の東西両中堂拡が高等学校に比較して整備が遅れていることを改善するよう早急に措置することとなった。そのため両中学の学級数を同じ程度に平均するよう校区の変更を実施することとし東中は高鍋高校の第二校舎(旧高鍋高女)へ移転し旧青年学校の校舎は高鍋高校へ譲ることになった。東中は同年十一月五、六日移転を完了した。通学区については、両中学の生徒数を、ほぼ同数になるよう配慮し、次のようにした。。束中より西中へ編入の地区水谷原、太平寺、宮田、毛作、新山、町上、町中(東町を除く〉、町下、筏、蓑江(石原、下蓑江を除く)。西中より東中へ編入の地区持団、東光寺、家床、正祐寺、真米、勝利、鴫野(東中沿革誌)右のほか、西中校区の俵橋は国光原中に、老瀬、木ノ瀬は木城中に通学することとした。東西中学校の生徒数はどちらも五二三名で一一学級となった。通学区の変更は占領下の当時、至上命令であったから、決定