ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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第四節戦後の教育改革終戦と学校教育戦争は終わったが、学校で正規の授業を開始するのは容易なことではなかった。国民学校ではまず校区内各地区の分散教室を閉鎖し本校に集結することが急務である。高鍋国民学校は終戦直後の八月二十日分散教室を本校に復帰させた。上江国民学校も同様の措置をとった。文部省は八月二十つうちょう八日、九月中旬までに全学校の授業を再開するよう各県に通牒を発した。戦争中荒廃した学校に応急の補修整備を加えながら曲がりなりにも授業を再開したやさき八月二十六、二十七日本県は猛烈な暴風雨の襲来を受け被害もまた甚大であった。高鍋国民学校は北校舎倒壊、東校舎半倒壊、高学年生の作業場であった第一、第二振興舎が倒壊した。上江国民学校も牛舎が倒壊した。高鍋中学校では本館の玄関以東並びに中棟、北棟が倒壊、高鍋高女も雨天体操場が倒壊した。住民の住宅も全壊半壊数を知らず米作など作物の被害は終戦直後の生活に大きな打撃であった。終戦直後の学校学校教育高鍋国民学校は一一教室の不足を来すことになった。各学校は直ちに復旧作業に着手したが、九月十七日再び猛台風に見舞われた。枕崎台風である。この台風で高鍋国民学校の東校舎は全壊、講堂の岸根のスレートも四分の一が吹き飛んだ。上江国民学校では奉安殿の犀根が飛散したが、こちらは二十七日には復旧した。二回に及ぶ台風被害の復旧は容易なことではなかった。高鍋国民学校沿革誌に次のよう第l章に記録されている。「一日本早く校舎の復旧を図り児童の不便を除き敗戦後の教育再建に当らんものと復旧計画に着手、校長始め全職員児童並びに部落民の応援のもとに川南唐瀬原の九、九四四の兵舎一棟を譲り受け酷暑をしのいで約二里半の元兵舎に連日出張作業に当れり」兵舎を解体し、その資材を町役場や学校後援会の協力で学校に運搬、十二月十二日には高鍋青年学校専修科生徒の手で建設に取りかかった。その間六年生五学級と五年生の一学級が講堂で不自由な授業を続けた。校舎復旧と校具修理のため学校後援会の協力を得て一一万余円の寄付を受け、校舎の屋根葺替(二十一年三月末完了)机、腰掛、黒板などを新調した。高鍋中学校は二十一年三月末、校舎の中棟の復旧工事が終了、続いて九月三十日には本館がしゅん工した。しかし北棟の完成は遅れて二十三年三月になった。高鍋青年学校は八月二十六、二十七日の暴風雨で東側の校舎が倒壊したが、その秩の末に再建した。また軍事教練用の南部式軽機関銃ほか銃器類はことごとく焼却したほか、校舎内に格納保管中の軍用落下傘もそれぞれ指示に従って住民に配給処分した。終戦後の青年学校の活動中、特筆すべきはさきにも記した建築大工養成部の設置とその実績である。清義時校長は戦争による荒廃から町民生活の復興再建を図るために、建築大工の養成が緊急に必要なことを痛感した。同校長は萩原の大工増田常一を教官に依嘱し、同業の下屋敷、北原喜三郎の協力を求め、建築大工の養成に努めた。青年学校の校舎を始め高鍋中学校、高鍋小学校の各校舎、映画館の記念館、個人住宅などを次々に建設した。技術を青年の情熱と実行力で補いながら、戦後人手不足のときに高鍋町の再建に貢献したのであった。記念館の場合は、建設の半ばに台風で倒壊、再度建て直したのである。その青年学校も新学制925