ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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教育と文化旨に従って振興隊の組織活動を強化整備し戦時即応の訓練を実施した。十八年六月「学徒動員体制確立要綱」翌年には「緊急学徒勤労動員方策要綱」が作られて学徒動員を「勤労即教育ノ本旨ニ徹シ」て強化し「動員期間ハ一年ニ付概ネ四カ月ヲ標準トシ且継続シテ」行うたてまえとした。こうした学徒への勤労動員は戦局の拡大深刻化に比例して強められ、十九年八月「学徒勤労令」「女子挺身隊勤労令」が同時に公布され、第7編徒動員の法令上の措置が決定した。二十年三月政府は「決戦教育措置要綱」を決定「国民学校初等科ヲ除キ、学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル問、原則トシテ之ヲ停止スル」こととした。更に五月二十二日「戦時教育令」が公布され、これに付せられた上諭には教育勅語を引用し「一旦緩急ノ際ハ義勇奉公ノ節ヲ効サンコトヲ諭シ給へリ」と前提し「今ヤ戦局ノ危急ニ臨ミ朕ハ忠誠純真ナル青少年学徒ノ奮起ヲ嘉シ」とあり、学徒に対し非常時局下最後の奉公を求めた。学徒勤労動員の活動内容は多種多様であったが大別すると食糧増産のためのものと、戦争に直接必要な物資を生産するための工場動員の二つに分類できる。食糧増産は中等学校一・二年生が国民学校児童とともに麦刈り、田植え、稲刈り、麦まき、かんしょ収穫などの作業に従事した。学校の運動場も掘り起こされてかんしょなど食糧生産の場となった。男子中等学校生徒四・五年生は県外の熊本市健軍、福岡県香椎、長崎県川棚、大村方面の軍用機の生産に通年動員となり、食糧不足と頻繁な空襲の悪条件に堪えつつ、三交替制で苦闘を続けた。県内の工場に対しては、三年生男子と四・五年生女子が延岡の日室化学工業の各工場、都域の川崎航空機工場、南那珂郡外ノ浦木造船工場、宮崎の郡是製糸工場などに動員された。青年学校の動員については、高鍋は農家出身の生徒店主ι弓ムが多く、自家作業をはじめ農業関係に従事した。また女子学生については祖国振興隊の項で述べたように、農繁期に保育所を設置し、幼児の保育に当たり、農家の労力不足を補った(宮崎県経済史)。こうした戦争のさ中に高鍋中学校の武道場が完成した。昭和十六年六月十六日に落成式を行った。更に十八年四月一日同校は県立移管となり宮崎県立高鍋中学校と改称された。戦争が激化する中で学校も次々に様相を変えていった。校舎や講堂の壁には擬装が施され、窓ガラスには爆風破損の防止に紙を張った。校舎の天井は焼夷弾対策のため取り払われた。学校内に神社が建てられ、高鍋国民学校に忠霊室がしゅん工し慰霊祭が行われたのは昭和十九年三月二十一日である。既に楠公・二宮金次郎の銅像は軍用に供出され、綱引きの綱もやがて学校から徴用されて姿を消した。こうしたことはひとり高鍋のみのことではなく、国を挙げて戦争に没入したのである。学校も924戦場であった。学徒はその使命の学業をなげうち、鉛筆をくわやハンマていしんーに持ち替えて生産の増強に挺身し「臣民の道」に殉じようとした。学校の機能は停止の形となった。学徒の勤労動員にもかかわらず大勢はしだいに悪化し生産は低下し物資は欠乏し町内の学校も米軍の銃爆撃にさらされ、被害は児童生徒ならびに教師や住民にまで及んだ。昭和二十年八月十五日、ラジオで重大放送があるとの予告があり、正午に終戦の大詔を雑音の多い放送の中で聞いた。録音の放送ではあっても、それは正に天皇の御声であった。一五年に及んだ戦争終結の宣言を人々は粛然として聞いた。