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概要

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襲も日を追って激しさを増していった。近隣の人々はもとより、学校、学校後援会、町役場等それぞれ援助の手ケ差し伸べ慰問激励に努めた。上江のほうは学校の図書館を改装繋備して宿舎に充て、別に食事だけは小使室近くの炊事場、浴場などを併せ使用した。しかし空襲が始まると学校では危険なので、二十年五月からは鬼ヶ久保、俵橋両公会堂の宿舎に移り、ここでも近隣の人々から手厚い援助を受けた。こうした物心両面の援助は戦時下の不向由な生活の中で、疎開学童や引率関係者に深い感銘を残した。昭和四十九年七月、二十九年ぶりに高鍋を訪れた大田守盛ら「高鍋疎開学童の会」一行一五人は、学校・役場・宿舎のあった掘の内ケ巡って感謝のあいさつを述べた。「恵まれない時代だったが、高鍋の人たちの厚い人情に触れ幸せだった」と声をつまらせて当時をしのんだ。上江疎開組も五十九年一月、高鍋ケ訪れ学校や鬼ヶ久保、俵橋を巡って記念品を贈り厚く謝意を表した。疎開児童は戦後も残留を続け、二十一年秋沖縄の両親のもとに帰って行った。学校教育昭和二十年コ一月、米軍艦載機(グラマン)の編隊は宮崎県下を初空襲、町民の生活も昼夜の別なく米軍機の攻撃にさらされるようになった。児童生徒は登校下校時はもちろん学校にあっても警報発令のたびに学習を中断して防空壕に待避せねばならず特に小学校初等科児童の生命の安全が問題となってきた。東京そのほかの都市では学童疎開が実施され沖縄、種子島などの児童分散教室も九州本土に疎開した。高鍋国民学校の沿革誌は当時のことを次のように記す。第1章「大東亜戦争第五年目を迎へ本土決戦間近に迫り空襲頻発し学童の通学にも危険なる状態となれり。前年度に引続き防空施設の強化を計りしも遂に分散教育の止むか得、ざるに至れり。かくて五月十七日(昭和二十年)より各部落に於て公会堂及び個人の家を教場に充て学校附近の部落は学校に於てそれぞれ分散教育を実施せり。」分散教育は初等科のみで高等科は増産作業などに従事するため学校に通学した。右の沿革誌にもあるように初等科児童を自宅に近い分散教室に収容し、そこへ教師を配当したので分散教室の授業はどこも複式授業であった。黒板、机、腰掛などは学校から運び狭く暗い仮教室で不自由に耐えながら学習を続けた。昔の寺子屋に逆戻りしたような姿であった。それでも心ある親たちから教室が殺風景だろうと花びんや花を贈られ、柱時計を貸してもらい、近くに防空壕も設置したりして環境を整備した。しかし空襲警報が発令されると教師たちは直ちに学校へ走り警備に就いたので児童たちは自宅に帰った。警報は登校時点から発令されるので疎開教室での授業は名ばかりの授業にすぎず自習に近いものであった。上江国民学校も高鍋と同時に各地区に分散教室を開設、公会堂や神社の建物などを利用して疎開授業を行った。戦局は日増しに悪化し、敗戦の様相を呈し広島、長崎の原子爆弾投下により、二十年八月十五日の終戦を迎える。児童たちのほとんどは各地区の疎開教室で終戦のことを知らされた。戦時中正に窒息状態となった学校教育は終戦と同時に教育の再建に立ち上がることになり、同年八月二十日各地区の疎開教室を閉鎖し高鍋、上江両国民学校ともに本校へ復帰したのである。青少年学徒祖国振興隊の結成以来、学徒の労働力は時局の深刻化勤労動員とともに注目を浴びるようになった。昭和十六年八月文部省の指示によって全国的に学校報国隊が結成された。祖国振興隊を早く結成していた木県は、これをそのまま活用しながら国の報国隊の趣923