ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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教育と文化十四年四月二十六日、勅令が公布され青年学校義務制が発足した。十四年度普通科男子第一学年から年を追って一学年ずつ実施、二十年本科五年の義務制によって完了することとした。つまり中等学校に進学せず勤労に従事する青年の大部分が小学校卒業後も更に七年間、教育を受けることになったので教育史上でも画期的なことであった。しかし優秀な兵士の資格としての学力の充実を図るという軍事的な目的が先だち、時局の重大化とともに軍事教育の優越する教育機関となっていった。合併後の高鍋青年学校は現高鍋高等学校内西側、木城県道に沿った位置にあった。高鍋小学校内に付設され、実業補習学校として発足、青訓充当高鍋公民学校と呼ばれた昭和の初めごろは高鍋小学校の第三棟東端の二階建てを使用していたが、昭和七、八年ごろ、同小学校の道を隔てた北側の所、大池久保に新校舎を一棟建て、そこへ移った。この校舎に第7編上江青年学校の生徒が合流したので校舎が狭く、増築を迫られることになった。十五年八月十三日、町議会で校舎の増築が決定した(議決書)。両校の合併と言っても、新たに職員に辞令交付もなく、職員は生徒を引率して高鍋の校舎へ移り、両校職員生徒一体となって訓練に励んだのであった(吉本多喜雄談)。上江青年学校の校舎のことを記しておきたい。上江小学校付設の実業補習学校として発足した同校は青訓充当上江公民学校と呼ばれたが、校舎は上江小学校内の南、旧講堂の南側、溝の北側にトタンぶきバラック建ての校舎で教室二、裁縫室一それに便所が付設されていた。粗末な校舎であったが上江地区が純農村のため出席率も極めて良好で査閲の際などいつも称賛されたのであった。しかし校舎が粗末で古くなったため、後に川田製糸工場の建物を村で買収し、これを改装して校舎に充てそこへ移った。同時に裁縫室、銃機庫なども整備し、運動場、田畑なども生徒の作業によって整えられた。製糸工場の大きな煙突を倒し、軍馬補充部から軍馬を一頭、払い下げを受け飼育していた。これらの思い出のある施設を残して高鍋と合併したのである。青年学校の男子は週一回出校したが、連日制の戦時下の青年学校生徒もいて毎日三O名程度の出校者があり、作物の栽培などの実習に従事した。女子は連日制で本科一年二年各一学級計二学級、研究科一年二年各一学級計二学級であった。実習地は大池久保に回が三反歩、雲雀山に畑が一町歩あり、馬を一一頭飼育していた。916昭和十五年(一九四O)は日本紀元二千六百年に当たり、これを祝して記念行事が行われた。十一月二十六日の「紀元二千六百年奉祝大日本青年団西部動員大会」がそれで宮崎市の八紘台と総合運動場を会場に式典、分列式、演技発表会が行われた。青年団の行事であったが当時青年団活動と青年学校とは不離一体の姿にあり、翌十六年一月「大日本青少年団」が組織されると、青年学校長が青年団長となり官制的な統制が加重された。町内には高鍋青年学校のほかに、鉄輿社高鍋工場に「鉄輿社青年学校」があり、十六年六月十日に開校式を行った(日向日日新聞〉。もう一校はアルコール工場に付設した青年学校であるが、これは高鍋青年学校の分校のような形で指導教官は池部栄一郎少尉であった。昭和十八年五月二十二日、高鍋青年学校航空青年隊ならびに児湯航空青年隊の結成式が挙行され、青年学校の活動の中に航空の実地訓練が加わった。天津に在住の荒川正一がグライダー(文部省一型)を寄贈したのである。指導教官は藤井富治義でグライダー操縦について訓練を受けていたのが役立った。訓練には広い場所を必要とするので、青年学校の