ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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着工した講堂及び増築校舎二階建て四教室もやがて完成、五月二十七日に落成式を挙行した。講堂は建て坪七七坪、六OO名の収容能力を有し当時異彩を放つものであった(福岡白日新聞)。高鍋中学校は昭和九年一月、設立者変更認可の申請を文部省に提出、認可となったので同年三月十九日財団法人高鍋中学校を解散、四月十三日付で児湯東部七箇町村組合立宮崎県高鍋中学校となった。翌十年二月なんきんには正門通りに南京ハゼの苗木が植えられ、これが後に同校の名物並木となった。更に十一年四月五日には奉安殿が完成した。時局の影が伸びる中で各校はそれぞれ施設の整備を進めたのであった。青年学校の開校学校教育実業補習学校と青年訓練所はどちらもほぼ同年齢の青年を教育の対象とするので実施上に問題もあり、高鍋町では早くこれを統合した。後に上江でも「青訓充当上江公民学校」と称した。二重の学籍は全国共通のことであったから、両者の発展拡充に伴って、その教育内容が接近するにつれ、これを統一する要請が高まっていった。両者統合の案は文政審議会の審議を経て昭和十年(一九三五)四月一日青年学校令、青年学校教員養成所令が公布され同年十月一日を期して全国各市町村に青年学校が誕生した。高鍋、上江両町村においてもそれぞれ高鍋青年学校、上江青年学校として新たに発足した。青年学校の本旨は、男女青年に対しその心身を鍛錬し徳性を油養するとともに職業および実生活に須要なる知識技能を授け、もって国民たる資質を向上せしむるを目的とすと規定してあるが、生徒の大部分は働きつつ学ぶものであるところから、一般学校に比べて、その教育は著しく青年訓練所から青年学校へ第l章簡易、自由を特色として地方の実情、青年の境遇に適応させるよう特別の考慮を加えた。その課程は普通科・本科・研究科および専修科の四つからなり、普通科は二年、本科は男子五年、女子=一年ーとして、土地の状況によって各一年を短縮することができた。研究科は一年以上、専修科は期間の定めがない。尋常小学校卒業者は普通科に入れ、普通科修了者および高等小学校卒業者は本科に入れたが、研究科には本科卒業者またはこれと同等の教養ある者を、専修科には特別の事項を習得する希望者を入学させた。普通科の教授および訓練科目は修身および公民科、普通科・職業科・体操科とし、女子には家事および裁縫を加えた。本科では修身および公民科・普通科・職業科および教練科であるが、女子には教練科を省いて家事および裁縫科ならびに体操科を加えた(学制百年史)。青年学校合昭和十二年日華事変のぼっ発とともに時局はますます併と義務制急を告げるに至ったが、その翌年、昭和十三年(一九三八)十月一日高鍋上江両町村の合併が実現し今日のような「高鍋町」が設置された。このため高鍋、上江両青年学校を合併統合しようとの議が起こった。上江地区住民の聞には過去の優秀な実績にかんがみ、合併に必ずしも賛同しない意向もあったが、既に町村合併実現の直後でもあり町議会は十四年四月二十一日両青年学校を合併して新たに高鍋青年学校を設置することを議決した。日華事変以後、軍部の教育に対する要請は更に強まる中で、青年学校義務制の必要が論議されるようになった。毎年実施の壮丁教育調査の結果、尋常小学卒業のみで壮丁となった者の学力の劣悪さは軍部にとって憂慮すべき事項であったから、青年学校の義務制を実現することで壮丁の質の向上を期待したのである。昭和十三年七月十五日教育審議会は「青年学校教育義務制実施に関する件」の答申を行い、これを受けて翌915