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概要

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教育と文化三、神社、仏閣、遺祉、伝説、逸話、奇談このほか郷土の史跡地図など作製され授業に活用された。郷土地理、郷土史の副読本は昭和二年に発行され四年生で使用した。こうした郷土教育研究はさきに述べた報国少年団の活動などと相まって、非常時日本へ傾斜して行く情勢の中で、しだいに国家主義の教育に移行したのである。第7編昭和期に入ったころ、上江小学校はなお校舎整備が終わらず、南校舎は西側のみであった。昭和五年、村会は小学校校舎の増築案を決定したが、当時持団地区でも分教場改築を要望していたので、村会の決定には不満があった。九月二十三日持団地区民七十余名、上江実業補習学校に集合、持団分教場改築期成同盟会を結成、大いに気勢を上げたので村会は上江小校舎増築案を撤回する一幕もあった。上江小学校の南校舎東側三教室増築は昭和十年七月に実現をみたのである。高鍋小学校は大正期に四棟の校舎を整備し、昭和四年には衛生室を設け学校看護婦を置き、同八年七月には各教室にスピーカーを取り付け校内放送を始めた。更に八年十二月十九日待望久しかった講堂が完成、落学校施設の整備成式を行った。この講堂は学校行事だけでなく町の各種行事にも利用され、以来長く高鍋町公会堂の役割をも果たしたのであった。上江小学校においても昭和十一年九月、講堂が完成した。高鍋高等女学校は昭和四年三月に本館が完成したが同年九月には寄宿舎もしゅん工した。この年には校歌が制定され、校友会誌「松蔭」も創刊された。昭和七年一月には創立二十周年記念事業の奉安殴完成、同年三月三十一日雨天体操場(八四坪)特別教室三コ二・五坪)がしゅん工し一段と施設が整った。高鍋農学校では昭和八年に移転反対運動があった。当時の九州日日新聞に「宮崎県教育調査会が県下中等学校の整理に乗り出した事は地方別に利害関係が大きい事として各方面の注目を惹いて居るが、児湯郡においては妻中学校を廃校してその後釜に高鍋農学校を移転せんとする腹案ある事判るや、高鍋農学校卒業生は之が対策を講ずベく十一日(六月〉母校に集合協議」廃校絶対反対の決議をした旨を報道している。翌七月九日には高鍋町舞鶴座において高鍋農学校移転絶対反対同盟結成大会を開催した。会する者同校卒業生および児湯郡東部八か町村有志六百余名、会長に久保昌業を選び、反対演説、宣言決議を行った。宣言の冒頭で「木県教育調査会は高鍋農学校を他に移転せんとするの意ありと聞く。若し果して真なりとせば是れ実に聖代の奇怪事と謂はざる可からず」と述べ、最後に「教育機関の分布の名に於て我校を他に移転せんとするが如きは吾人の断じて承服する能はざる所なり。滋に当局の猛省を促し以て我等の決意を表明す」と結び次の決議を行った。914議一、吾人は高鍋農学校移転に対し絶対に反対す。決(九州日日新聞)右の決議に基づき会後、有志は県庁に赴き君嶋知事そのほか関係者に反対の陳情を行った。この問題はやがて立ち消えとなり事なきを得たが、地区住民の熱誠が、当局の計画を思いとどまらせたのであろう。これらのことは施設の整備とは趣を異にするが昭和初期の重要な事件なのでこの項で触れることにした。高鍋農学校はその後、昭和九年十月運動場拡張工事終了(一町四反三畝一歩)、同十年六月には製茶工場もしゅん工した。そして十三年二月