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概要

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教育と文化右は同年十一月から施行されたが、当時補習教育に努力していたことがうかがわれる。第7編大正九年(一九二O〉二月実業学校令が改正され、同年十二月には実業補習学校規程の改正があり、目的を勤労青少年に対し「職業ニ関スル知識技能ヲ授クルト共ニ国民生活一一須要ナル教育ヲ為ス」とした。こうした状況の中で上江村では、高鍋小に実業補習学校が付設された翌年三月、桐山校長が上江実業補習学校の設置を村当局に提案したが否決となった。同校沿革誌はその聞の事情を次のように記している。補習学校の設立大正十年五月二十四日設立認可。同十一月二十三日開校。是より先補習学校の設立に就ては大正九年三月桐山校長之を村当局に謀りしも成らず。大正九年税田校長の時代に至り大に其必要を主張し或は学務委員に諮り或は郡内の統計を作りて有志に配布し一意これが宣伝に努め大正十年三月三十一日村会に於て漸く之が設立の決議を見るに至れり。上江小に付設された上江実業補習学校の開設に至るまでの困難が推察される。大正十四年九月発行の児湯郡郷土誌に郡内の補習学校が記載されており、その数は二O校に上り、各町村に設置されている。これは大正十一年三月二十二日、実業補習学校施設要項を県から訓令(訓令第三号)補習学校を町村に必ず設置させることとしたのによる。上江実業補習学校の開校は高鍋に遅れること二年、郡内でも決して早いほうではなかった。しかし開設後の充実ぶりは目ざましく、大正十二年七月には県主催の補習教育研究会が同校で二日聞にわたって開催され、実地授業、農業実習、研究発表など二百三十余名の県内各地から参加した関係者に賛嘆の声を放たしめたのであった。宮崎県教育(大正十四年第二七六号)に県内補習学校の優良校が挙げられているが、児湯郡からは上江農業補習学校のみが出ており、特長として施設経営と記してある。学校、村当局、父母、生徒一丸となっての努力が顕著な実績につながったのである。900高鍋中学校の設立第一次世界大戦後、人口の犠加、国民生活の向上に伴い全国的に進学希望者が増加し中等教育機関の増設の要望が強くなった。県内でも大正二年の中等学校は公私立を合わせて一六校にすぎず、各校の収容定数も少なかったので増加する志望者の要求を満たすことができない状況であった。県はこうした情勢を踏まえて学校の増設、収容定数の増加などに努め大正十四年には三四校に増加した(宮崎県政八十年史上〉。県立中学校高鍋に中学校を設立することは早くから町民の念願で誘致運動あり、既に明治期の教育の中でも述べた。しかし時機なお熟せず、念願は実現しないままに、明治三十六年郡立農業学校の開校を見たが、これは実業教育であって必ずしも念願の全部ではなかった。中学校設立の悲願は町民の聞になおくすぶりながら時の到来を待っていたのである。大正十年一月県立小林中学校設立認可、同年県立飲肥中学校の設置があり県内に中学校設立の動きが活発となった。こうした情勢に刺激を受けた高鍋地区有志の聞に、念願の中学校設立をこの機会に実現しようとの声が起こったのは当然の成り行きであった。同じころ妻町を中心とする児湯西部地区でも中学校設立を要望したので同郡内の東西両地区が中学校誘致を争う結果になった。大正十年十二月発行の高鍋郷友会報告に次の記事がある。