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概要

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6-n談〉同校の卒業生杉善は「斎角精神に思う」という文の中で次のように述べている。「私は今日に至るも高鍋農学校の不滅の伝統として継承されている斎角精神の中にクラlク博士の感化と千石輿太郎氏の影響を感知せざるを得ない。すなわち未知の新天地を切り開く開拓精神と質実剛健の気風これである。」ここに引かれている千石輿太郎は札幌農学校の出身で斎藤校長より四年先輩であったが明治三十八年七月郡立農業学校の教頭として着任、同校の創設に尽力新しい施策を行った。後に全国産業組合中央会長、貴族院議員、農林大臣などを歴任したので知られている。斎藤校長のもとでその教育理想に共鳴し、人格識見に傾倒しながら仕事をともにした人は千石輿太郎のみではない。多くの協力者、同行者の献身があって斎角精神の光輝ある学風を樹立できたと見るべきであろう。そして教育実践の先頭に常に斎藤校長が厳然と立っていた。質実剛健、開拓創造、至誠奉公などの綱領を核に、農を通して人の生き方を徹底的に教えた。厳格と温情と調和ある教育の姿が光っていた。学校教育斎角精神について述べてきたが、今一つ忘れてならないのは、卒業生の就職、進学に対する適切な指導と徹底ぶりである。創立六十周年記念誌に河野庄平(畜産科卒)は次のように記している。「卒業生は校長の不断の御努力によって就職の門は広まり、国の内外に発展し、上級に進学するもの、海外に雄飛するもの、実業に進むもの・:あらゆる社会面に活躍した。」校長はそのため惜しみなく私費をも投入したこと、今も語り継がれている。斎藤角太郎は昭和六年五月二十四日に逝去、二十七日高鍋農学校の運動場において葬儀が行われた。学校から高月の安養寺墓地の墓所まで延々と葬儀の列が続いた。かくして明倫堂の遺風を継ぎ社会中堅の人材養第1章成にその全生命を捧げ尽くした教育偉人の霊は静かに土に帰っていった。実業補習学大正期に入って実業補習学校は全国的に設置され大正校の普及元年には学校数七、000校を超え生徒数三十余万人となった。その後も増加を続け同九年には学校数一万四千余校、生徒数九九万余人となった(学制百年史)。高鍋地区では明治三十二年七月高鍋農業補習学校の廃止以来、農学校の誕生もあって実業補習学校は設置を見なかった。第一次世界大戦が終わって大正八年(一九一九)高鍋実業補習学校が誕生する。高鍋郷友会報告(第四二号)に次の記事がある。「高鍋実業補習学校二月十八日町立として高鍋小学校に付設し、本校の外に町、蚊口、脇、永谷の四分教場を置く。期間は六箇月にして毎週月水金の午後七時より十時迄(季節により変更)夜間授業とす。実業科目は農業商業にして、生徒は本校四十四名、町役場二十名、蚊口二十六名、脇十七名、永谷十六名合計百二十三人なり」これより前、大正三年(一九一四)一月児湯郡は県内最初の試みとして「教育招集規程」を設け補習教育の推進に努めた。次にその中から摘記する。児湯郡教育招集規程第一条町村立尋常小学校並高等小学校卒業者にして上級学校に入学せざる男子に対し温習の為毎年二回毎回七日以上十日以内教育招集を行ふベし。教育招集区域は卒業学校の区域に依る。第三条第一条第一一項に該当するものL父兄は子弟をして教育招集に応ぜしむべし。899第四条教育招集年限は卒業の年より丁年に達する迄とす(以下略)。