ブックタイトルac_cho_0017-2_takanabe
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教育と文化望夕リシナリ。第7編然ルニ大正元年御大葬ノ翻、将軍殉死セシト聞クヤ湯地氏ニ対シカネテヨリノ希望ヲ披歴、其ノ遺墨斡旋カタヲ依頼セシモノノ如シ。(或ハ両者面会ノ機、約束セシヵ、ソノ点詳カナラズ)兎-一角大正二年三月十一日附書留ヲ以テ湯地氏ヨリ送ラレシハ、実ニ将軍絶筆(辞世〉ナリシナリ。其ノ後農学校御真影奉安所一一所蔵セラレタリ。然ル一一斎藤病ノ故ヲ以テ同校長ヲ辞スルニ及ビ大正十五年三月以後斎藤家-一所蔵セラレタルモノナリ。以上昭和八年五月二十日斎藤角太竪竹主代伝、守-'斎藤右の乃木将軍辞世の色紙は、和歌の結句が「我もゆくなり」と最初書き「も」の右側に訂正の「は」が書き加えてある、つまり書き損じとなった色紙であって現在は長府博物館の所蔵である。乃木将軍の赤誠殉国の至情は斎藤校長の人格を支える基盤であって同時に斎角精神を形成する要素の一つと考えられる。宮崎県教育の大正十三年一月号に斎藤校長が「高鍋農学校教育一斑」と題する一文を寄せている。その「訓育綱領」の中に次の説明がある。詔勅の聖旨を遵奉し忠孝の大道を弱行体得するに努む。正心誠意、自己の本分を自覚し全力を尽して責任を全うするの精神を養成す。3、勤勉進取事に当り全力集中、堅忍持久以て能率増進の良習を養成す。4、倹素ー、忠孝2、忠実物資善用の観念を体し、更に質素簡易の生活の生活を尚ぶの美風を養成す。5、協同自己犠牲の精神を体し、公共の福利の為め協同一致するの美風を養成す。898(以下略〉これらの項目は教育勅語そのほかの詔勅、国の教育方針に源を発するものであるが、斎藤校長は独自の厳しさと裏に秘めた深大な温情によって教育実践の上に着々成果を挙げた。斎藤角太郎先生伝の中に「何かというと藩学明倫堂ということばを口にしていた」と荒木茂が書いている。斎藤校長が高鍋農学校の初代の責任者として、同校が明倫堂跡に建てられたこと、その建学の精神を継承して人材の養成に専念したことはむしろ当然のことと言うべきであろう。斎角精神が明倫堂の精神を基軸にしていることは言うまでもあるまい。斎藤校長のもとで獣医学と剣道を生徒に指導した竹内方義は次のように詰問っている。「私は剣道を教えていたが冬は寒稽古をした。朝五時半から始めた。最初の年のこと、柔道の黒木先生と話し合って始まる少し前に道場へ行った。見ると袴をはいた斎藤校長が正面に端然と正座しておられた。私けいこたちは驚いたが一礼して直ちに仕度し稽古を始めた。その日黒木先生とまた話し合い、校長が先に来られて我々が後から行くのでは具合いが悪い。我々は五時前に道場へ行くようにしようと決めた。次の朝五時前に着いて見ると斎藤校長は前日と同じく正座して待っておられた。練習の後、寄宿舎の人たちに聞いてみると『斎藤先生より前に着くのは無理ですよ、先生は四時には釆られるのだから』というので改めて恐れ入ってしまった。別に何とも言われはしなかったが校長の身をもって教える態度、その厳しさは万事このとおりでいつまでも印象に残っている。」(日・