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概要

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斎角(さい高鍋農業高校の正門を入った所に南面して胸像が建てかく)精神られている。「斎藤角太郎先生像」と台座の正面に刻まれている。県立高鍋農学校創立三十周年を記念して同窓会が建てたもので、裏面に「初代校長斎藤角太郎先生、明治三十六年創立以来勤続二十有三年本校今日の基礎を確立せらるここに二千の校友相計りて像を建て恩師に報い其の功績を不朽に伝へんとす」と刻んである。斎藤角太郎は明治期の教育で記したように明治三十六年同校創立のときに初代の校長として赴任し同校教育の建設に献身的努力を注ぎみごとな実績を上げた。教えを受けた生徒はもちろん、その父母、同校勤務の職員、関係者、一般住民に至るまでその人徳を敬慕しない者がなく高鍋農学校の世評は高く多くの人材が輩出した。大正十五年三月同校を退職するまで二十余年の長期間を同校の経営に専心したのである。斎藤角太郎が心血を注いで育て上げた特色ある同校の校風について、同窓会の間で「斎角精神」の語が使われる。今日では広く一般化して使われ高鍋農学校を語るとき、島田精神とともによく引用されている。斎藤角太郎の教育精神を略した用語と考えられる。角太郎は「少年よ、大志を抱け」の語で有名なクラlグ博士の、あの札幌農学校(札幌農科大学)を卒業したから、その開拓奮闘の精神を身につけていた。このクラ学校教育ーク精神が斎角精神の基本をなすものと考えられる。「日本新教育百年史」の「斎藤角太郎」の文中、同校長に教えを受けた二人の思い出が引用されている。第l章しようがい「斎藤校長の時代に学んだことは生涯の幸せだったと思います。文字どおり清廉潔白、古武士の風格があって、教育は厳格そのものでした。学科は修身と経済学を担当されました。先生の私生活は常に赤貧洗うがごとき御様子でしたが、それを少しも気にしていられなかったです。清廉潔白と堅忍持久、このこつこそ私が母校で学び取った処世訓であります」(落合武男談)。「学校ではまるで別人のように厳格で、先生たちも生徒たちも、校長の前では緊張そのものでありました。毎週一回、講堂で校長訓話がありせきましたが、校長が入場される前には場内、咳一つせず、しんとなりました。いったん屋上に立たれると、とうとうと熱弁をふるわれました。一〈ちぐせ語一語が、つぶてがまつこうから飛んで来る感じでした。口癖のように、質実剛健ということを力説されました。乃木大将自筆といううっし世を神さりましL大君のみあとしたひて我はゆくなりという辞世の色紙を示して講話されるときなどは、声一涙ともに下るというありさまでした」(則松菊弥談)。これらの話は斎角精神そのものについて述べたものではないが、角太郎の人柄を通してその教育精神に触れた代表的なものと考えられる。右の談話中にある乃木将軍の辞世の歌については、経緯が明らかにされている。斎藤校長夫人竹代の次の文によって事情が分かる。乃木将軍辞世ノ来腔所持者斎藤角太郎物故セシニヨリ其ノ事情,詐カナラザルモ大略左ノ如シ湯地定彦氏ト斎藤角太郎トハ札幌農学校(北大前身)ノ同窓シカモ親友ノ間柄ナリシナリ。卒業後、湯地氏ハ東京-一斎藤ハ宮崎県高鍋農学校ニ奉職、所ヲ異ニセシガ依然交際ハ継続セラレタリ。、揚地氏ハ乃木将軍夫人令甥、斎藤ハ世ニ所調乃木信者、乃木会ヲ輿シ白ラ其ノ指導者タリシナリ。ヵ、ル事情ヨリ且又教育ノ参考資料トシテ用ヒンタメ将軍ノ筆墨ヲ手一一入レタシトハカネテヨリノ希897